8 泰伯第八 17
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☆ 泰伯第八 十七章
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子曰 學如不及 猶恐失之
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子(し)曰(いは)く、学(がく)は及(およ)ば不(ざ)るが如(ごと)し。猶(なほ)之(これ)を失(うしな)ふを恐(おそ)る。
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☆ 意訳 (心理屋の勝手解釈)
先生が言われました。
学ぶということは、終わりのない作業です。後(あと)どれだけ学ぶことができたならばそれで善い、ということはありません。学ぶ前は何も分からないので、学べば分かる、と思うものです。ところが、一つ学ぶと十(じゅう)の分からないことが出てきます。二つ学ぶと百の分からないことが出てくるのです。学べば学ぶほどに到着点は遠離(ざか)っていって、決して追いつけるものではないのです。その上、折角(せっかく)一生懸命に学んで身に着けたことも、一寸(ちょっと)気を抜いて学習を怠ると、直ぐに忘れてしまいます。これは恐る可きことです。というか、忘れることを恐れて学習に励(はげ)み続けるようでなければ、学ぶということはできません。
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☆ 補足の独言
・ この章は「学ぶということは、幾(いく)らやっても決してこれでよい、完成した、ということはありません。その上厄介(やっかい)なことに、折角(せっかく)学んだことも、怠れば直ぐに忘れてしまうので、そのことが心配でなりません。」ということだと思うのですが、否(いや)、一寸(ちょっと)待って下さい、孔先生がそんなことを言いますか?という疑問が起こってきました。
『論語』の初っ端(ぱな)の文章はこうでした。
「學而時習之 不亦説乎(学びて時にこれを習ふ、また説(よろこ)ばしからずや。)
先人の大切な教えをしっかりと学んで、機会を逃さず何時でも学んだことを実践実習する。これは本当に心が浮き浮きとして、こんな充実した喜びに満ちたことが他(ほか)にあるでしょうか。(学而 第一 一章)」
孔子は繰返し繰返し「実践こそが大切だ」と言っています。学ぶだけでは、知識として知るだけでとても未(ま)だ身には着いてはいません。直ぐに忘れても当然です。学んだことは直ぐに習う、乃(すなは)ち実践してその体験を通して、身体(からだ)の実感として理解する、ということが必要なのです。そうすることで、忘れることも少なくなり、学び習うことが大きな喜びを齎(もたら)してくれるのです。
習うことの大切さ以上に孔子が繰返し繰返し言っている言葉は、「喜び、楽しみ」です。学びて習うことは喜びなのです。学ぶだけで習うことをしていないから、及ばざる苦しみや失う不安が出てきてしまうのです。この章を書いた儒者であろう人は、真面目な勉強家ではあっても、実践を怠っていたがために、孔子の真意が理解できなくて、こんな出鱈目を書いたのではないか、と邪推する傲慢な私でありました。
・ 修行に励み続けることの大切さ、という意味では、釈迦も同じようなことを言っているようです。
釈迦の最後の言葉、弟子達への遺言(ゆいごん)です。
「自灯明(じとうみょう)、法灯明(ほうとうみょう)。諸行無常故に怠らず励めよ。(これまで確りと修行を積んできた、自分の感性と理性を拠(よりどころ)として、他人(たにん)や世間の言動に惑(まど)わされないように気を付けて下さい。自分が学び理解した真理を拠として、巷(ちまた)の言説に惑わされないように務めるのです。そして、この世界に常なるものは一切ない、ということを能く能く理解していて下さい。私ももう死にます。これからも心して、怠ることなく励み続けていって下さい)」