9 子罕第九 2
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☆ 子罕第九 二章
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達巷黨人曰 大哉孔子 博學而無所成名 子聞之 謂門弟子曰 吾何執 執御乎 執射乎 吾執御矣
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達巷(たっかう)党(たう)の人(ひと)曰(いは)く、大(おほ)いなるかな孔子(こうし)。博(ひろ)く学(まな)びて名(な)を成(な)す所(ところ)無(な)しと。子(し)之(これ)を聞(き)きて、門弟子(もんていし)に謂(い)ひて曰く、吾(われ)何(なに)をか執(と)らん。御(ぎょ)を執らんか、射(しゃ)を執らんか。吾は御を執らん。
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☆ 意訳 (心理屋の勝手解釈)
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達巷(たっこう)という村の人が先生をからかって囃し立てていました。
「孔先生はエーライな。何でも学んで皆知って。それでもだーれも褒めやせぬ。」
恐らく似而非(えせ)隠者の輩(やから)に唆(そそのか)されでもしたのでしょう。
このような揶揄(やゆ)は何時ものことですので、これを聞いた先生は、楽しそうにそれにのって、弟子達に言いました。
「ワッタシッハー、ナニッニシヨーカナー。」
六芸(りくげい)の総てに秀(ひい)でている先生ですから、何でもござれ、なのですが、こゝは一丁(ちょっと)遊び心を発揮してやれ、と考えました。
「世間の評価に応(こた)えて名を成すのだから、派手な方が善いでしょう。とすると戦(いくさ)の体術である射(しゃ)(弓術)か御(ぎょ)(御者の馬術)に限られることになりますね。さて御にするか。射にするか。んーん。射は直接人を殺す為のもの。御は馬との交流が実に素晴らしい。よっしゃ決めた。私は御で名を成すことにしよう。わっはっはっ。まあそんな暇があったなら、もっと礼や楽に勤(いそ)しんだ方が、私の楽しみや喜びは大きいですね。ということで、この話は無かったことに。チャンチャン😊」
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☆ 補足の独言
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・ 隠者の説に従うと、「博(ひろ)く学びて名を成す所無し」という言葉は最大の賛辞であり、「大(おほい)なるかな孔子」というのは、素直に絶賛したものと理解できます。しかし孔子の反応を観ると、然(そう)ではないようです。似非(えせ)隠者達は、如何(いか)に努力をせずに名声を得るか、ということに心血を注いで努力をしているのです。そのような似非隠者にとっては、努力し倒して実力をつけ、名声を得ても無きが如くに謙虚に振舞(ふるま)う孔子の存在は、本当にでっかい目の上のたん瘤(こぶ)だったのでしょう。この悪意に対する先生のふざけた反応を、弟子達にも見せることに因って、似非隠者に騙(だま)されないように、何が本当に大切なことなのか、ということを自分で能く考えなさい、と教育しているように思われます。
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・ 六芸(りくげい)というのは、孔子学園の必須科目だったようです。士(し)すなわち貴族として世に出るための基礎教養ですね。こゝで言う士、貴族というのは、庶民の上に立って、彼等の安全を守り、幸せな生活を教え導く義務を負った立場の人のことを言います。
貴族は戦になれば、国と国民を守るために、先陣を切って生命(いのち)を投げ出さなければなりません。ですから自分の生命(いのち)を守るためにも、武芸に秀でていることは必須条件となるのです。
この六芸は「礼・楽・射・御・書・数」の六つですが、大事な順に並んでいるように思われます。善き対人関係を作るために、思い遣りの心を育てる「礼」。心を浄化し、安定した精神で以て感性を養う音楽としての「楽」。この二つが最も重要と思われます。次いで国を守り自分を守るための武術である「射」と「御」。そして「書」と「数」、となりますが、最後の二つは「読み書き算盤(そろばん)」のことか、と思いますが、「書経」や「尚書(しょうしょ)」と言われる、孔子が古典として特に重要視していた歴史書のことか、とも思われます。ともあれ、「書」と「数」がどんなものか、「論語」を読んでも私にはさっぱり解りません。「読み書き算盤」も教えていた、ということで善いのかな、と思います。
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☆ 一寸嬉しいお知らせ
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突然視力が低下して、医者から失明を覚悟するように言われて、パソコンの字も全く見えなくなってしまいました。それで、溺(おぼ)れる者は藁(わら)をも掴(つか)む、という思いで、鍼灸(しんきゅう)などの民間療法や、目が見えるようになる、と言われたものを片っ端からやってみました。緑内障は目薬や手術で、進行を遅らせることはできるが、良くすることはできない、と言われていたので、何とか完全失明が少しでも遅れますように、という思いでした。ところがこんなことをしている内に、少し見えるようになってきたのです。急激に悪くなる前ほどには見えませんが、大きな字なら白黒反転などの工夫で、何とか読めるようになりました。御医者様は驚いたようで「目薬は忘れずに点(さ)していますか」と訊(き)かれ、「はい」と答えると「あゝそれでですね。検査結果がとても良くなっています。これからも目薬をしっかり点していって下さい」と、とても喜んで下さいました。目薬は以前から、それこそ必死の思いで忘れないように点し続けているのですが、それ以外には良くなった理由が考えられなかったようです。私にも何がよかったのかは全くわかりませんが、事実、わたしにとっては、奇跡が起こったのです。
読むのも書くのも、これ迄の何倍もの時間が掛かるのですが、パソコンの先生に機具や活用法を様々に教わり、何とか「心理屋の論語」を再開できそうです。