1 学而第一 1

Last-modified: Wed, 09 Jun 2021 13:59:04 JST (1024d)
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☆ 学而 第一 一章

 

 子曰 學而時習之 不亦説乎 有朋自遠方來 不亦樂乎 人不知而不慍 不亦君子乎

 

 子(し)曰(いは)く、学びて時にこれを習ふ、また説(よろこ)ばしからずや。朋(とも)有り遠方より来たる、また楽しからずや。人知らずして慍(うら)みず、また君子(くんし)ならずや。

 

☆ 意訳 (心理屋の勝手解釈)

 先生(孔子)が言われました。

 先人の大切な教えをしっかりと学んで、機会を逃さず何時でも学んだことを実践実習する。これは本当に心が浮き浮きとして、こんな充実した喜びに満ちたことが他にあるでしょうか。そうではないですか。

 信頼し合い尊敬し合う同志が、遠路遙々(はるばる)訪ねてきてくれることがあります。旧交を温めていると、彼と、ならではの満足な深まりが再燃してきます。こんな楽しいことがまたとあるでしょうか。ね。

 私達は自分のことを認めてもらえていないと、不愉快になり、がっかりしたり腹を立てたりしてしまいます。然し大切なことは今述べたことの方です。他人(ひと)に善く見てもらうために生きるのではありません。自分の心を喜びに満ちた楽しいものにすることこそが大切なのです。私達が目指す理想の人間像(君子)は、それができている人のことを言うのです。

 

☆ 補足の独言

 論語の冒頭に置かれたこの章は、論語全体の精髄が集約されている、と言われています。まっことその通りだな、と思います。

 孔子の信念、孔子が最も大切と思っていた三本柱がここに明記されています。

 先づ第一に大切なことは、学ぶことと、それを実習実践することによって得られる楽しさと充実した満足感です。説び(よろこび=悦び)という言葉には、単に楽しいだけでなく、心の底から湧き上がる満足感があるように思われます。雍也(ようや)第六の二十章に「之(これ)を知る者は之を好む者に如(し)かず、之を好む者は之を楽しむ者に如かず」とありますが、学而一のこの章からは、その続きとして「之を楽しむ者は之を説(よろこ)ぶ者に如かず」という言葉がくるのだ、とわかります。論語全編に漲(みなぎ)っている「学(を実践すること)への情熱と愛情」が、初端(しょっぱな)の端(はな)から 迸(ほとばし)り出ているのです。この情熱こそが論語なのだ、だから二千五百年経っても色褪(あ)せないのだ、ということを先づ理解しなければならないと思います。ただ、間違わないでほしいのは、「学びて時にこれを習う、また説ばしからずや」という言葉の重点は「学びて習う」にあるのではない 、ということです。「学びて習う」というのは目に見える現実、事実です。その現実の行動が、目に見えない心の世界に「説(よろこび=悦、喜)」という最も大切なものを生じさせるのです。この喜びという心の在様(ありよう)、人生を生きていく姿勢こそが、孔子が一番大切に思い願っていることなのです。学や習はその願いを叶える一番大きなもの、というだけなのです。「学んだことを実践することの喜び」と言ってよいのでしょうね。すなわち、孔子が一番大切にしていることは「喜び」そして次に出てくる「楽しみ」なのです。人がしあわせになる、ということは、人生に楽しみや喜びが一杯あるということです。それは一時逃れの束の間の快楽ではなく、自分自身を心底から納得させ、成長させる喜びや楽しみのことです。孔子は、学習、学んで実践することこそが、本当の最高の喜びをもたらすものだ、と言うのです。

 次に大切なことは 朋、友達、仲間の有り難さです。心の通い合っている友人が労苦を物ともせず、私に会いに来てくれる。私の方も、どんなに忙しくても、これに勝る喜びはない。楽しく語らうことによって、学習は大いに深まり進むのです。釈迦も同じようなことを言っています。仏教では悟りを開く修業をするために最も大切なものを、三宝(さんぽう)と言います。仏法僧(ぶっぽうそう)の三つです。真理を発見して教えてくれた仏(ほとけ)とその説かれた真理である法。この二つが宝なのはわかりますが、それと並んで大切なものが「僧(僧伽そうぎゃ、サンガ)」です。サンガとは、集い、一緒に修業する仲間のことだそうです。このことを初めて知ったとき、対人関係の苦手な自閉気味の私は、衝撃を受けました。その上釈迦は、こうも言っています。私は君達の指導者ではない、共に修業をする仲間なのだ。仲間だから、知っている者が知らない者に教えるだけで、皆対等なのだ、と。今でこそ私も仲間の大切さ、ということを痛感できるようになりましたが、釈迦や孔子は、初めから「友無くして己(おの)が心の深まりは無い」とわかっていたのですね。

 さて、この二つの重要なことに続いて、ようやく君子が登場します。論語と言えば仁と君子、という感がありますが、君子は仁を実践する理想の人格像です。先に述べた喜びや楽しみに心が行かず、世間の目や自分の評価ばかり気にしているようでは君子とは言えないよ、ということでしょうね。

 

◎補足の補足

 訳:「書物や師から教わったことを、機会を捉えては実践し、実践を通してそのことの意義や意味、喜びや充実感を実感的に体験できたならば、こんな喜ばしいことはないでしょう。」

 「師」というのは、「三人行えば必ず我が師を得(う)」(述而第七の二十一章)の「師」であって、師匠だけでなく、友や仲間も皆含まれます。友は掛替(かけが)えのないものです。孔子にとって学問は独りでコツコツと学び考えていくものではありませんでした。人々の中で共に学び実践体験を通して理解し身につけていくものでした。孔子の学問の喜びの中には、人間関係の喜びが混じっているのだと解ります。今の現実を観ると、勉強好きの人には人間関係を避ける人が多く、人付き合いの好きな人には勉強から逃げる人が多いように思います。この二者は一体となって、人間関係の中に学問を求めなければいけない、ということのようですね。

 訳:「友達が遠くから態々(わざわざ)訪ねてきてくれました。こんな楽しいことがありましょうか。」

 人生は何かと忙しいものです。不意に友達が訪ねてきたりすると、仕事の邪魔になり、大変困りますね。何故(なぜ)困るかというと、友達も仕事と同じだけ重要で大切だからです。仕事の方が大事、とはっきりしていたら困ることも悩むこともありません。仕事には自分の生活、人生が懸かっています。友はそれと同等な存在なのです。友が大切であれば困って当然です。しかし孔子は困ってはいないようです。何故なら、孔子にとっては自分の生活よりも友の方が遙かに大切だからです。何時(いつ)如何(いか)なる時でも、現実生活よりも魂の在様(ありよう)を重んじる。こんなお師匠さんの世話をするお弟子さん達は、本当に大変だったでしょうね。