1 学而第一 2

Last-modified: Tue, 08 Jun 2021 01:30:03 JST (1051d)
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☆ 学而 第一 二章

 

 有子曰 其爲人也 孝弟 而好犯上者 鮮矣 不好犯上 而好作亂者 未之有也 君子務本 本立而道生 孝弟也者 其爲仁之本與

 

 有子(いうし)曰く。その人と為(な)りや、孝弟(かうてい)にして上(かみ)を犯すを好む者は鮮(すく)なし。上を犯すを好まずして乱を作(な)すを好む者は、未(いま)だこれ有らざるなり。君子は本(もと)を務(つと)む。本立ちて道(みち)生ず。孝弟なる者はそれ仁を為すの本か。

 

☆ 意訳 (心理屋の勝手解釈)

 有(ゆう)先生(有若ゆうじゃく)が言われました。

 為人(ひととなり、天性の人柄)が親孝行で、世間でも目上の人を確(しっか)りと敬うようであれば、その者が秩序を乱して責任者を困らせて喜ぶようなことは滅多とありません。そして、秩序を乱すことを好まない者が反乱を企ててとんでもないことをしでかす、というようなことは、今まで聞いたこともありません。

 立派な人として生きていくためには、自分の根本を成す心構えが大切なので、それがちゃんとできたならば、自分が進むべき道は自(おの)ずから見えてくるものです。してみるとどうも、孝行で敬いの心を有(も)っている、ということこそが、仁、思いやりの心で人を大切にすることの根本になる、ということですね。

 

補足の独言

 ちょっぴり鈍臭くってお人好しの有若は、或る時、孔子からこのように言われたことがあったのかも知れません。それはとても嬉しいことであって、自分の弟子達にちょくちょく言っていたのかもしれないですね、根拠のない空想ですけれど。

 何故(なぜ)こんなしょうもない空想をするのか、と言いますと、この文章が二番目に来る理由が解らないからです。「論語」の編纂は実にええ加減な、杜撰(ずさん)といっても良いうな感じがします。始めと終りだけは確(しっか)りと考えて置かれたようですが、後(あと)は適当、でたらめに集めただけ、という感じです。所々ちょこっと纏(まと)まったところがありますが、それも適当に寄せ集めた感じですね。宇宙の秩序の美しさを賛美する書物のはずなのに、渾沌の極みです。渾沌を賛美する老子の方がよっぽど秩序だって纏まっています。その理由は、孔子は渾沌を通して秩序を伝え、老子は秩序を通して渾沌を伝える、という方法を採っているからだ、と納得できます。。そして我々現代の読者にとっては、論語は纏まりがないからこそ、生(なま)の孔子像、生きた孔子の息吹が伝わってくるので、こんな有り難いことはありません。。

 多分こんな編集方針の中で、恐らく有若と曽参(そうしん)の弟子達が中心になって進められたのであろう、と思われます。思うに、有若の弟子は有若に似て、生真面目(きまじめ)でお人好しが多かったのではないでしょうか。そのお陰で孔子の言葉がそのまま文字に残されることになったと思われます。変にはしっこく個性的な弟子だったら孔子の言葉がどんなにねじ曲げられていたことか。前半十巻の孔子の言葉は、本当に孔子の息吹が伝わってくるようです。このような有若の弟子達が、巻頭は孔子大先生の最も重要であると思われる言葉を置き、二番目には我等が直接の師である有若先生のお言葉を何としても、となったのではないでしょうか。

 「子」という尊敬を表す言葉は、孔子をただ「子」と呼ぶ以外は、「有子」「曽子」「冉子(ぜんし)」「閔子(びんし)」の四人だけで、子路(しろ)も子貢(しこう)も顔回(がんかい)も「子」とは呼ばれていません。ということは、文章を提出した門人が、大先生の孔子以外は、自分の先生だけを「子」と呼んだのではないでしょうか。