2 為政第二 7 のバックアップソース(No.1)

''&size(36){☆ 為政第二 七章};''
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'' 子游問孝 子曰 今之孝者 是謂能養 至於犬馬 皆能有養 不敬何以別乎''
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 子游(しいう)、孝を問ふ。子曰く。今の孝なる者は、是(こ)れ能(よ)く養(やしな)ふことを謂(い)ふ。犬馬(けんば)に至(いた)るまで、皆能く養ふこと有り。敬(けい)せずんば、何を以(もっ)て別(わか)たんや。
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''☆意訳''

 子游(しゆう)が親孝行について質問しました。

 先生は言われました。

 今時のご時世は、親の面倒をちゃんと見ている者が親孝行だと思われているようですね。これはとんでもない間違いですよ。考えてもみてください。確りと面倒をみる、というだけだったら、動物好きな人だったら、犬や馬に対してもやっていることではないですか。

 真実親孝行であると言えるのは、何をしているのか、という行動ではありません。如何(どん)な心がけでその行動をしているのか、という心の在り方なのです。

 何時も言っているように、大切なのは言葉より行動です。しかしいくら行動が完璧にできていても、それだけでは親孝行とは言えません。この前も一寸(ちょっと)時間旅行機(タイムマシン)に乗って、二千五百年後の日本へ行って観てきたのですが、悲しいかな今と全く変わっていませんでしたねえ。あらゆる設備の整(ととの)った、至(いた)れり尽(つ)くせりの老人施設に高額な料金を払って、親を入居させている。息子はそれで安心して、仕事が忙しいからと言って会いにも行かない。そんなのが親孝行だと評判されていました。親の生活を安心させる、ということも非常に重要なことではありますが、親の心を安心させなくて、何とするのですか。親の心を気遣い親を敬(うやま)い尊敬する気持で以て何事も行うことができたならば、それで初めて親孝行と言えるのではないですか。子游君は、やる可きことは申し分なくできていますが、一番大切なことは敬う心なのだ、ということを忘れないようにしてください。
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''☆心理屋の勝手解釈''

 孔子にとって言葉には、真実の言葉と偽(いつわ)りの言葉とがあるようです。「巧言(こうげん)令色(れいしょく)鮮(すく)なし仁(じん)」(学而第一、三章)というのは偽りの言葉の代表的なものでしょう。真実の言葉の代表は、「詩三百、一言(いちげん)以てこれを蔽(おお)えば、曰く思い邪(よこしま)無し」(為政第二、二章)でしょうね。

 言葉を非常に大切にしていた孔子にとっては、実のない饒舌なお喋りほど嫌なものはなかったでしょう。日本には言霊(ことだま)という世界観がありますが、中国にも孔子にも同様の世界観があったと思います。言葉には魂があり、言葉は生きているのです。

 言葉は心を表わすものでもありますが、これは目に見えない心を、目に見える言葉に置き換える作業といえるでしょう。ものは何でも、確認できて理解されると、その時点で融通性や柔軟性を失って硬化してしまうものです。仁も礼も孝も、定義されることで硬化してしまいます。生きているものは柔らかく、死ぬと硬くなります。偽りの言葉は、実(じつ)のない死んだ言葉です。真実の言葉は生きています。生きている、と言うことは心がある、ということです。

 「孝」が生きた言葉であるためには、孝の心である「敬」がなくてはならぬ、ということですね。
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