1 学而第一 4 のバックアップソース(No.2)

&size(36){''☆ 学而第一 四章''};
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 ''曾子曰 吾日三省吾身 爲人謀而不忠乎 與朋友交而不信乎 傳不習乎''
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 曾子(そうし)曰く。吾(われ)日に吾(わ)が身を三省(さんせい)す。人の爲(ため)に謀(はか)りて忠(ちゅう)ならざるか。朋友(ほういう)と交(まじ)はりて信(しん)ならざるか。習はざるを伝ふるか。
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''☆意訳''

 曾先生が言われました。

 私は毎日何度も繰(く)り返し自分自身を省(かえり)みるようにしています。例えば、相談を受けて、その人の為にどうしたら善いかと考えるときに、誠心誠意を尽くすことができていただろうか、と心の内を省みて叮嚀に検討し直します。また、友達や仲間と付き合ったときには、信頼を裏切ったり失望させるような無責任な身勝手をしなかっただろうか、と省みます。それからこれも抜かせません。自分がちゃんと実践実行できるようになってないことを教えたり要求したりしていないか、と。
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''☆心理屋の勝手解釈''

 「吾日三省吾身」これをこのまま訳すと、「私は一日に三度、自分自身のことを振り返って反省します」となりそうですが、そうではないでしょう。この後(あと)三つの反省内容が続くので、「ああ三省の三はこの三つのことか」と思い込んでしまい易(やす)いですね。でもそう解釈すると筋が通らなくなってしまいます。

 (「毎日三回朝昼晩。病院でもらう薬みたいだな。朝は忠で昼は信、眠る前には徳の実践。懺悔(ざんげ)の項目これで善し」てなもんかな。)

 起こってくる疑問は、「相談を受けない日もあるのではないか」「友達と会わない日もあるのではないか」「弟子に教える機会がない日もあるのではないか」ということです。「いや、別に何も無い日は反省する必要もないでしょう」などと曾参(そうしん)が考えるはずもないでしょう。

 もう一つの大きな疑問は、反省することがこの三つだけでよいのか、ということです。曾参の性格上、それもあり得ないことです。真面目(まじめ)で内省的な曾参には、反省材料は五万とあるはずです。

 してみると、この「三省」の「三」というのは、数字の三を表すのではなく、「たくさん」という意味を表す言葉なのだ、と解ります。そして後半の三つの具体的な反省項目は、「例えば」ということで、代表的なものを挙げたと思われます。「論語」は文章が美しいことでも有名です。簡潔な美しさを追求する論語の編者にとって、「三つ」ということは美文構成上望ましいことであり、何を選ぶかに悩んだのではないかと、妄想を楽しんでしまいます。ここで選ばれたのは、「忠」と「信」、それに「実践の大切さ」です。この選択は素晴らしいと思います。