テスト のバックアップ(No.1)
歴史 
成立 
『論語』は春秋時代を生きた孔子とその弟子たちとの言行録である。時代が下り、秦の始皇帝は儒教弾圧のため焚書坑儒を行い、『論語』本文は失われてしまった。しかし、生き残った儒者が口承で内容を伝え、これが現在の『論語』の原型になった。また、孔子の子孫である孔安国は自宅の壁の中に隠されていた『論語』を発見したと称して、新しい系統の『論語』本を加えた。前漢時代には、儒者たちが景帝のために『論語』を編纂し、いまに伝わる『論語』が完成した。このような来歴があるため、本文には潤色が含まれており、全てが実際の孔子の言動というわけではない。
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古代・中世 
『論語』は五経(六経)のうちには含まれないが、『孝経』と並んで必読とされる書物であった。『顔氏家訓』勉学篇には、「乱世では貴族の地位など役に立たないが、『論語』・『孝経』を読んでいれば人を教えることができる」と書いてある。
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近世 
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南宋の朱子は『論語』を『孟子』『大学』『中庸』と並んで四書と定め、宋学(朱子学)ではこれをテクストとして重視し、科挙の出題科目にもなった。朱子は新注と称される論語への注釈『論語集注』を著し、時に強引な解釈をしながら新たな哲学体系を作り出した。同時代の陸九淵や明の王陽明は、朱子学を批判しながらも大きな影響を受けて陽明学を創始した。
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東アジア
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古代に朝鮮や日本など周辺諸国に伝わった。日本では、飛鳥時代には既に伝来していたが、平安時代には漢籍の一つとして貴族の間で読まれていた。五山文学の僧侶たちは仏教に紛れて伝わった朱子学を学んでおり、徳川家康のような学問を好む武将も読んでいたという。江戸時代には藤原惺窩や林羅山、山崎闇斎らが朱子学を普及させ、一方で伊藤仁斎や荻生徂徠といった古学者たちが朱子学の解釈を批判し、新たな注釈を作っていた。また、町人たちは寺子屋などで儒学を学び、石田梅岩のような思想家も現れた。明治時代以降は徐々に廃れて行くが、渋沢栄一は『論語と算盤』や『論語講義』で企業活動にも論語の道徳が必要だと説いた。ビジネス書や自己啓発書などとして、現在でも読まれている。注釈としては伊藤仁斎の『論語古義』、荻生徂徠の『論語徴』がある。近代の東洋史、東洋哲学での研究には津田左右吉『論語と孔子の思想』、武内義雄『論語之新研究』、宮崎市定『論語の新しい読み方』などがある。
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西洋
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ヨーロッパでは、中国大陸で布教活動を行っていたイエズス会の宣教師により『大学』『中庸』と共にラテン語に翻訳され、17世紀にフィリップ・クプレによって出版された。中国の哲学はシノワズリの一部としてフランスのヴォルテール、シャルル・ド・モンテスキュー、ケネーといった思想家らに大きな影響を与え、啓蒙思想の発展に寄与した[2]。ドイツのクリスティアン・ヴォルフはこれに大きな影響を受けドイツ観念論哲学の原型を作り上げた[3]。
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文献
「論語の注釈」も参照
『論語』には伝統的に複数の注釈書がある。現存最古の注釈書は、魏の何晏がまとめたとされる『論語集解』(古注)である。 但し、『三国志』巻九の何晏の列伝には編纂したことは書かれておらずどこまで何晏の解釈か難しい。南宋の朱熹は、独自の立場から注釈を作り『論語集注』(新注)としてまとめた。江戸時代以降の日本でももっぱら新注が用いられたが、朱子学の論語解釈を批判する形での論考に、伊藤仁斎『論語古義』、荻生徂徠『論語徴』がある。
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それらの注釈書が作られる前の漢代には、『論語』は三つの伝承流派によって伝えられており、魯地方で伝承していた『魯論語』(魯論)、斉地方で伝承していた『斉論語』(斉論)、孔子の旧家の壁の中から発見された古文の『古論語』(古論)、以上三つの『論語』(三論)があった[4]。三論はそれぞれ編の数や順序が異なっていた[4]。前漢の張禹が魯論と斉論を統一して『張侯論』を作った後、後漢の鄭玄が魯論を中心に三論を統一して注釈書を作った[4][5]。この鄭玄の注釈書は現存しないが、これが以降の『論語』のもとになった[4]。
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漢代以降は、熹平石経などの石経にも刻まれて伝えられた。
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1900年代以降、莫高窟をはじめとする敦煌・トルファン地域の遺跡で、上記の鄭玄の注釈を含む、唐代の『論語』の写本の断片が出土した。
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1970年代、河北省の定州漢墓から、前漢の紀元前55年以前に書かれたと推定される『論語』の竹簡が出土した[6]。
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1990年頃、北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)平壌市郊外の楽浪区域にある遺跡(貞柏洞364号墳)から、紀元前45年の楽浪郡のものと推定される『論語』の竹簡が出土した[7]。この出来事は、2009年頃から国際的に知られるようになった[7]。
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2016年、江西省南昌市にある遺跡海昏侯墓(中国語版)(前漢の劉賀の墓)から、漢代当時の『斉論語』と推定される竹簡の断片(『論語』知道篇)が出土した[8]。
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2020年、注釈書の一つ『論語義疏』について、6~7世紀初めに中国で書かれたとみられる最古級の写本が日本で見つかった[9]。
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構成
512に区切られる短文・長文が、全10巻20篇の中にまとめられる形で収録されている。
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篇の名称は(「子曰」を除く)各篇の最初の二文字(または三文字)を採ったものであり、章によってはその章の内容のことをいう。前10篇を「上論」、後10篇を「下論」と呼んで区別したりもする。論語は学問に関する章が多く取り上げられており、学以外にも社会秩序などにかんする内容も取り上げられている。
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巻一 
- 学而(がくじ)第一
- 「学」についての記述、孔子の根本思想についての立件が多いため、熟読すると良いと朱熹は言う(集注)。凡そ十六章[10][11]。
- 為政(いせい)第二
- 政治についての記述が多いとされる。凡そ二十四章[10][11]。
巻二 
- 八佾(はちいつ)第三
- 礼楽に関する記述が多く、この「八佾」も礼楽の行列の名前である。凡そ二十六章[10][11]。
- 里仁(りじん)第四
- 「仁徳」に関する記述が多いとされる。朱熹は凡そ二十六章[10][11]。
巻三
公冶長(こうやちょう)第五
名の通り孔子の弟子の公冶長との問答より始まることから公冶長篇と名付けられたとされる。この章の殆ど(最後の三章)が孔子と弟子との問答や人物評価が書かれている。凡そ二十七章[10][11]。
巻四
述而(じゅつじ)第七
孔子の自身言葉や容態、行動に関した記述が多いとされる。凡そ三十七章[10][11]。
泰伯(たいはく)第八
泰伯への称賛から、礼楽など、終盤には聖人などの構成とされる。凡そ二十一章[10][11]。
巻五
子罕(しかん)第九
孔子の言行や孔子の出処進退に関する門人の記録が多いとされる。凡そ三十章[10][11]。
郷党(きょうとう)第十
篇首が「孔子」で始まり、「子曰」という記述がないとされる。吉田(1960)は朱熹の集注をもとに十八章に分けた[10][11]。
巻六
先進(せんしん)第十一
門人などの人物評論が多く、孔子が祖国の魯に帰国してからの門人との言行の記述があることから孔子晩年期がわかる。凡そ二十五章[10][11]。
顔淵(がんえん)第十二
孔子と門人、君主が「仁」や「政」に関する問答は多く、篇首には顔回との「仁」についての問答から始まる。凡そ二十四章[10][11]。
巻七
子路(しろ)第十三
前半は政治について、後半は善人や士君子や道徳についての問答が多いとされる。凡そ三十章[10][11]。
憲問(けんもん)第十四
この篇首、原憲が孔子に「恥」について問いたが、これ以降の篇では「原憲」のことを「原思」と字を用いていることからこの篇はは原憲が書いたのではないか,または魯の国で編集したのではないかと吉田(1960)は考察した。凡そ四十六章[10][11]。
巻八
衛霊公(えいれいこう)第十五
この篇は修身出処に関する雑言が多いとされる。凡そ四十一章[10][11]。
季氏(きし)第十六
この篇は「下論」でも体裁が異なっているとし、「子曰く」とあったところが「孔子曰」となっている。凡そ十四章[10][11]。
巻九
陽貨(ようか)第十七
この篇は孔子の出処進退に関する章が数章ある。世の中が衰え、道が行われないことを嘆いたり、当局者や門人に与えた警告も多いとされる。凡そ二十六章[10][11]。
微子(びし)第十八
この篇は他の逸民の話が多いが、孔子に関係を持った人達の出処進退などが記されているとされる。凡そ十一章[10][11]。
巻十
子張(しちょう)第十九
この篇の大体が孔子の門人たちの言葉のみ記されている。特に高弟の言が多く、孔子に類するような言葉などが多いとされる。凡そ二十五章[10][11]。
堯曰(ぎょうえつ)第二十
この篇は凡そ三章であるが、聖人の政治や為政者にとっての政治的訓誡、君子の要訣など論語全篇に照応させたように見られると吉田(1960)は言う[10][11]。