8 泰伯第八 13 のバックアップ(No.1)
☆ 泰伯第八 十三章
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子曰 篤信好學 守死善道
危邦不入 亂邦不居 天下有道則見 無道則隱
邦有道 貧且賤焉 恥也 邦無道 富且貴焉 恥也
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子(し)曰(いは)く、篤(あつ)く信(しん)じて学(がく)を好(この)み、死(し)を守(ふせ)ぎて道(みち)を善(よ)くす。
危邦(きはう)には入(い)らず、乱邦(らんぱう)には居(を)らず。天下(てんか)道(みち)有(あ)れば則(すなは)ち見(あらは)れ、道無(な)ければ則ち隠(かく)る。
邦(くに)、道有るに、貧(まづ)しくして且(か)つ賤(いや)しきは、恥(はぢ)なり。邦、道無きに、富(と)み且つ貴(たっと)きは、恥なり。
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☆ 意訳 (心理屋の勝手解釈)
先生が言われました。
隠者の中には賢者と言える立派な人も沢山いますが、そうと許りは限りません。或る隠者がこのようなことを言っていました。
第一に大切なことは、古(いにしえ)の聖人や仁者賢者の言ったことやその行いを深く信頼して、それらを積極的に喜んで学び実践することです。そして生命(いのち)を大切にして、思い遣りで以て和を実践する道を、全力でより善きものへと深めていくことです。
次いで、政情の不安定な、正義が通らず善意が踏み躙(にじ)られ、悪逆非道が罷(まか)り通るような国には行ってはいけないし、そのような国に居たならば速(すみ)やかに去る可きです。死んでしまったのでは、元も子もないのですから。
そして、理(り)に適(かな)った正しい政治が行われている国であれば、世に出て自分の力を存分に発揮すれば宜(よろ)しい。国の状態がそうでなければ、隠棲(いんせい)して時が来るのを待っていなければなりません。
そのときに、理に適った正しい政治が行われているのに、そこで認められず活躍できなくて貧乏しているようでは恥だし、反対に、乱れきった国に雇われて富と身分を得ているようでは、これまた大いに恥づかしいことです。と。
こう言われると「うん、成る程」と思う方も多いのではないか、と思います。しかしこれは、私の思いとは随分違いますね。
第一のことは、私も全く同感です。しかし、政情の不安定な国、危邦(きほう)や乱邦(らんぽう)には行くな、逃(のが)れろ、というのはどうでしょう。本当に困って救いを求めているのは、危邦や乱邦の民ではないですか。我が身の安全のために彼等を見捨てて犠牲にするというようなことでは、とても賢者とか立派な人、とは言えないのではないでしょうか。彼等隠者達が私のことを「実現不可能な夢想を追い求めて、野良犬のように地を這いずり回って無益な労力を消耗している、真実を知らぬ青二才」と呼んでいるのは知っています。しかし、死を防いで生を守るのは、思い遣りの世を実現するためです。自分が死ぬのが恐(こわ)いからではありません。民を犠牲にして自分を守る、この何処(どこ)に思い遣りがあるというのですか。自分の生命(いのち)さえ守れれば良い、民がどうなっても構わない。これでは卑怯(ひきょう)なだけの自己中な臆病者に過ぎないではないですか。
また、正しい政治が行われているのに、そこで認められなくて貧乏しているようでは恥だし、乱れた国に雇われて富と身分を得るのは恥だと言いますが、確かにそれは一理あると言えるでしょう。しかし、事情は様々です。
それより本当に恥なのは、我が身が危なくなると観たならば、即座にこそこそと逃げ出して隠れ、安全が確認できたならば、厚かましくも大きな顔をして帰ってきて、自分を売り込む。これに勝(まさ)る恥はないと思いますね。このような、思い遣りの欠落した我が身大事の行動こそが恥なのです。
立派な隠者も沢山いますが、このような似而非(えせ)隠者の巧言令色(こうげんれいしょく)に騙(だま)されないように気を付けて下さい。序(つい)でに言っときますが、私(孔子)を騙(かた)る似而非孔子も巷(ちまた)に横行しているようですから、呉々(くれぐれ)もご用心くださいね。
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☆ 補足の独言
・ この章は、逆立ちしても孔子の言葉とは思えません。孔子の没後に流行(はや)った老荘擬(もど)きに影響された、孔子のことを理解できていない浅はかな儒者の捏(でっ)ち上げた作り話としか思えません。我が身を呈(てい)して民のために働く、という儒者としての仕事が恐(こわ)くて辛労(しんど)くて嫌だから、楽な場に逃げる自分を正当化するために、当時の流行(はやり)の思想に合わせて捏ち上げたものであろうと思って、このようなお話を捏ち上げてみました。
・ 正直なところ「守死(しゅし)」を如何(どう)理解するのが正しいのか解りません。生を死から守る、乃ち守るとは敵を防ぐことという意味で「ふせぐ」と訓読する、という説が一番しっくりと来たので、このように訳してみました。