8 泰伯第八 19 のバックアップ(No.1)


☆ 泰伯第八 十九章

 

 子曰 大哉 堯之爲君也 巍巍乎 唯天爲大 唯堯則之 蕩蕩乎 民無能名焉 巍巍乎 其有成功也 煥乎 其有文章

 

 子(し)曰(いは)く、大(おほ)いなるかな、堯(げう)の君(きみ)為(た)るや。巍巍乎(ぎぎこ)たり、唯(ただ)天(てん)を大(だい)なりと為(な)す。唯堯之(これ)に則(のっと)る。蕩蕩乎(たうたうこ)たり、民(たみ)能(よ)く名(なづ)くること無(な)し。巍巍乎たり、其(そ)の成功(せいこう)有(あ)ること。煥乎(くわんこ)たり、其(そ)の文章(ぶんしゃう)有ること。

 

☆ 意訳 (心理屋の勝手解釈)

 先生が言われました。

 本当に偉大ですね、堯帝(ぎょうてい)の王さんとしての活躍振りは。天高く聳(そび)え立つ連峰の如く、威風堂々として、絶大なる存在感を誇っています。この世で唯一真(しん)に偉大なのは、天のみです。その天の下(もと)で天に則(のっと)って活動できたのは、唯堯帝のみなのです。堯帝の存在たるや、天(あめ)の下(した)に果てしなく広がる大海原の如く、明るく伸びやかに滔々(とうとう)としています。その様(さま)は余りにも広大で、庶民の目には全く見えず、知られることもなかったのです。しかし、何と高く聳え立っていることでしょうか、その偉大な業績の数々は。そして何と光り輝いていることでしょうか、彼の定めた礼楽や法典の美しさは。

 

☆ 補足の独言

 この章は前章と同じ人物が作ったものか、或いは誰かが前章を真似(まね)て、それに輪をかけて空虚な物語を捏(でっ)ち上げたものか。孰(いづ)れにしても内容は、伝説の、乃ち架空の堯帝は最高に素晴らしい、最高の中でも本当に最高に素晴らしい、と手放しで褒(ほ)めちぎっているだけで、その具体的な論拠が全くありません。現実には、成し遂げた事業の痕跡も、礼楽を制定した証拠も何も無いのです。孔子は必ず具体的な事例を挙げて、その人を褒めます。これが堯帝ではなく、周公旦のこととして言われているのであれば、「成る程、若しかしたら本真(ほんま)に孔子が言うたんかも知れんな」とも思えますが、このような周公旦の業績を横取りしたような内容では興醒めです。他派との論争の為の権威付けなのか、皇帝(漢の武帝)へのはったりで儒教の国教化を目論見(もくろみ)たものなのかは解りませんが、一寸(ちょっと)お粗末過ぎる気が致しますです、はい。