8 泰伯第八 9 のバックアップ(No.1)
☆ 泰伯第八 九章
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子曰 民可使由之 不可使知之
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子(し)曰(いは)く、民(たみ)は之(これ)に由(よ)らしむ可(べ)し。之を知(し)らしむ可からず。
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☆ 意訳 (心理屋の勝手解釈)
先生が言われました。
人はそれぞれの立場に於いて役割があります。例えば、為政者、政治家には国民が安心して暮らせるように、善い政策を立てて豊かな国作りを実践していく義務があります。そして、農民には美味しい作物を作って皆に供給する義務があります。この義務を果たすために必要で大切なことは、信頼です。国の立てる政策が、任せていれば大丈夫だ、という信頼感があれば、安心して頼ってくれるのです。
信頼は、詳しい説明や説得によって得られるものではありません。何時でも自分に課せられた義務をきっちりと果たしていて、不安を懐(いだ)かせないことと、思い遣りの大きな人格であることによって得られるものなのです。
それがあれば、何故(なぜ)これが必要なのか、この方が良いのはどうしてなのか、といったような理由を正しく知る必要がなくなるので、態々(わざわざ)それを知りたい、と思う人は少ないのです。反対に信頼が置けなければ、詳しい説明や、論理的に整合性のある納得のいく説明が必要になります。
それは丁度、我々が美味しい食卓に有り付いたときに、お百姓さんや料理した人に喜んで感謝するだけで、この野菜は如何すればこのように美味しくなるのか、などとは考えないのと同じことです。特別に美味しかったりしたならば別でしょう。また、そういうことを調べるのが趣味であったり、強迫神経症的な拘(こだわ)りのきつい人の場合も別ですが。そうでなければそれで満足して、煩わしくややこしい知的関心にまではいかないのが普通です。
為政者が鍬(くわ)の振るい方や調味料の加減を、幾ら知的関心を持って研鑽しても、それは佳(よ)いことではありますが、せねばならないこととは言えないでしょう。為政者は、政策を深く理解しなければなりません。国民が皆政策を深く理解する、ということはできなくても仕方無いのです。勿論、知ろうとしてくれる人には喜んで教えたいのです。しかしまあ、皆が皆関心を持って聞いてくれる、ということは望み難(にく)いものですね。そのことは受け容れなければなりません。絶対に必要なことは、自分の実行する政策に対して、信頼を得ることなのですから。
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☆ 補足の独言
漢文の「可(べき)」は、日本語の「可(べき)」とは意味が違うことが多いので注意が必要です。日本語で「可し」と言えば、何々しなければならない、そうすることが正しい、という意味になりますが、漢文では、できる、可能である、という感じで用いられることが多いようです。そのことを知らないで日本語の意味と混同して解釈すると、この章などはとんでもない誤解を生ずることにもなりかねません。
この章を直訳的に訳すると、こうなるでしょう。
先生が言われました。
国民は、政策に頼ってもらうことは可能ですが、その政策の内容を理解してもらうことは簡単にはいかないものです。