9 子罕第九 16 のバックアップ(No.1)


☆ 子罕第九 十六章

 

 子曰 出則事公卿 入則事父兄 喪事不敢不勉 不爲酒困 何有於我哉

 

 子(し)曰(いは)く、出(いで)ては則(すなは)ち公卿(こうけい)に事(つか)へ、入(い)りては則ち父兄(ふけい)に事へ、喪(も)の事(こと)は敢(あへ)て勉(つと)めずんばあらず。酒(さけ)の困(みだれ)を為(な)さず。何(なに)か我(われ)に有(あ)らんや。

 

 ☆ 意訳 (心理屋の勝手解釈)

 

 酒を飲んで狼藉(ろうぜき)を働いた弟子に対して、先生が言われました。

 「心の在り方で最も大切なことは、敬愛の情です。他人(ひと)を敬い心を寄せることですね。その心構えができていれば、社会に出たときにば目上の人に素直に従えるし、家(うち)に帰れば家長や年長者に従うということができやすくなります。普段の心構えに於いては、これが基本となりますね。

 また、人間にとっては、親しい人、特に肉親の、「死」ということは、何よりも辛く悲しいものです。そのときには、皆でその痛みを分かち持ち、支えてあげることが必要です。ですから葬儀は何にも増して優先されなければなりません。敬愛の情があれば、葬儀に於いては精一杯の助力を惜しむ訳にはいかないのです。

 それから、酒の上での失敗は能く目にし、耳にするところですが、酒を飲むことは悪いことではありません。しかし他人(ひと)に迷惑をかけるような飲み方は、決して許されないことです。酒は飲んでも飲まれるな、ということですね。飲んだからといって思いやりを忘れることの免罪符にはならないのです。

 それだけです、私に言えるのは。」

 

 ☆ 補足の独言

 

 何で忠や孝や葬儀といった大きなことと酒が同列に論じられているのか、ということがわからなくて悩んだ挙句、このような解釈になってしまいました。

 「何か我に有らんや(何有於我哉)」を何と理解すれば善いのか。「私に何があるというのか、否(いや)何もありはしない」ということでしょうが、何がないのか。この四つのことが私には全然できていない、ということなのか。だとすると、これは謙遜し過ぎで、嫌味になってしまいます。また孔子自身のことを言っているのだとすれば、「入りては」の内容が合わなくなります。父母を早くに亡くした孔子に、自分が仕える人はいなかったでしょうから。酒は強かったらしいですし、そうすると矢っ張り酒癖の悪い弟子へのお説教かな、と。