9 子罕第九 17 のバックアップ(No.1)


☆ 子罕第九 十七章

 

 子在川上曰 逝者如斯夫 不舍晝夜

 

 子(し)、川(かは)の上(ほとり)に在(あ)りて曰(いは)く、逝(ゆ)く者(もの)は斯(かく)の如(ごと)きか、昼夜(ちうや)を舎(お)かず。

 

 ☆ 意訳 (心理屋の勝手解釈)

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 先生の晩年のことです。

 泗水(しすい)の方まで弟子たちと散歩をしたことがありました。先生は泗水の川辺に暫(しばら)くじっと佇(たたず)んでいました。そして、深く物思いに沈んだような声で、こう言われました。

 「息子の鯉(り)も死んでしまった。それに続いて顔回も。そして子路までもが。皆もういない。私のもとから遠くへ去って行ってしまった・・・。

 泗水の水は延々と流れているが、恰(あたか)も止まっているかのように、静かに佇んで見える。あらゆるものは、この川の流れのように、唯淡々と過ぎ去って行くだけなのだなあ。それも、昼夜(ひるよる)問わず、束の間の途切れることもない。そして、何が去って行っても、表向きは何も変わらない。其々が皆、休むことなく天命を果たし続けて去って行くだけ、ということなのか。私もこうして去って行くのだな・・・。」

 

 ☆ 補足の独言

 

 この文章を読むと日本人には真っ先に、鴨長明(かものちょうめい)の『方丈記』の冒頭の名文が浮かんでくるでしょう。

 「ゆく川のながれは絶えずして、しかもゝとの水にあらず。流れのよどみに浮かぶうたかた(泡沫)は、かつ消え、かつ結びて、久しくとゞまりたるためしなし。」

 これは長明が、戦乱や飢饉で人々が悲惨に死んでいっている有様を見て、仏教で説かれている無常観を正(まさ)しく真実であると痛感して書いたものでしょう。

 論語のこの章を初めて読んだときには、「同じ川の流れを見ても、思うところ感じるところは随分違うものなのだなあ」と思いました。しかし、繰り返しこの章を読んでいる内に、「いや待てよ。孔子の思いも長明の思いも、共通したものがあるのではないか」という感じが段々と大きくなってきました。その結果このような一面的な偏見に満ちた解釈になってしまいましたが、私(わたくし)としましては、このほうが真実に近いのではないかと、勝手に納得しています。