2 為政第二 22 のビジュアル編集 Top > 2 為政第二 22 ☆ 為政第二 二十二章 子曰 人而無信 不知其可也 大車無輗 小車無軏 其何以行之哉 子曰く、人にして信(しん)無くば、其の可(か)なるを知らず。大車(たいしゃ)に輗(げい)無く、小車(しょうしゃ)に軏(げつ)無くば、其(そ)れ何を以(もっ)てか之(これ)を行(ゆ)かしめんか。☆ 意訳 (心理屋の勝手解釈) 先生が言われました。 人は独りで生きていくものではありません。皆と共に生きているのです。共に生きていくためには、お互いに信頼し合うということが、最も重要なことです。人であるにも関わらず、自分の都合だけで嘘をついたり約束を破ったりと、信頼の置けないことばかりをするような者を、私は人として認めることはできません。 大きな荷車の牛車(ぎゅうしゃ)も、人を乗せる馬車も、荷物や人を乗せる車輪の付いた箱と、動力源である牛や馬とを繋(つな)ぐ、轅(長柄ながえ)の先の軛(頸木くびき)という横木がなければ、車として動くことはできません。輗(げい)や軏(げつ)という軛(くびき)で両者が確りと繋がっていないと、車は何処(どこ)にも行くことができないのです。 人にとっては、信頼関係、責任ある言動こそが、他人(ひと)と我とを繋ぎ止める軛(くびき)になっているのです。常に責任ある言動でもって信頼を得ることで、皆と共に何処にでも行くことができるようにありたいものです。☆ 補足の独言 孔子は世の隠者達を尊敬していたように思います。隠者達は孔子を非難軽蔑していた節が見受けられます。詰まり、孔子は隠者達を理解していたが、隠者達は孔子をよう理解しなかった、ということでしょうね。 孔子は隠者を認めて尊敬していましたが、一点だけは認められなかったようです。それは、他人への信頼関係を絶っていることです。信頼関係を絶って独りになれば、多くの煩わしさが解消して、彼等が言うように楽になるでしょう。しかしそれは、決して悟りの境地などではなくて、単なる逃避であるに過ぎません。 孔子は、裏切られても裏切られても、最後まであきらめることなく人を信じ続けていきました。言い替えれば、他人(ひと)が自分を信じるに足る言動をとり続けました。決して裏切ることも、無責任な言動もしなかったのです。そのような孔子だからこそ言える言葉なのでしょう。 「人にして信無くば、其の可なるを知らず(人であるのに信が無いというのば、そのような人を私は人として認めることはできない)」何という激しい言葉でしょう。 ・この章は、孔子の中に有る二つの想いが重なって出ているように思います。 一つは自分自身の心の構造、在り方です。もう一つは、社会の中での自分自身の在り方と関係性の在り方です。 自分の芯に信がなければ、しっかりした堂々たる車として、自分の進みたい道、進む可き道を行くことはできません。信でもって自分を自分の意志通りに動ける車にしなければならない、ということです。 そして人々との関係に於いては、皆で助け合っていかねば、社会は成立しません。社会全体が「しあわせな生活」を目指す一つの車となって進んでいくためには、皆が繋がるための軛(くびき)が必要です。その役割を担うのが「信」なのだということですね。 自分を成長させるための「信」と、皆が安心して暮らせるようになるための「信」です。 この「信」が、「軛(くびき)」で譬えられているのが凄いなあ、と考えさせられます。軛は頸木(くびき)であり、牛や馬を車に縛(しば)り付けておくものですよね。首枷(くびかせ)のようなものです。真実「信」は、首枷なのだ、ということです。首枷が外れたら、無責任になってしまいます。信は自分を律(りっ)する非常に厳しいものなのだ、ということです。 大学の時に、白川静先生の金文(きんぶん)の講義で学んだことなのですが、「幸(こう)」という字は「手枷」「足枷」「首枷」の「枷(かせ)」を表す字なのだそうです。衝撃でした。「幸(しあわせ)」とは、縛られること、自由が奪われることなのだ。確かに自由にして下さい」と言われると戸惑って不自由になる人は多いし、言われたことはできる、という人も多い。しかしもっと深い意味がありそうだ。よく考えてみると、総ては宇宙の法則の中にある。この法則は絶対的な縛りです。この法則から抜け出して自由になることなど絶対にできません。この縛りを全面的に認めて従ったときに初めて、本当の自由が得られるのです。現実は現に実在しているのですから、否定しても、なくなったり変わったりするものではありません。否定すれば苦しいだけです。般若心経に「色即是空(しきそくぜくう)」とありますがこれは、何が在るとか無いとかに拘(こだわ)っている限り総てが自分を阻(はば)むものになる。在る無いに拘(こだわ)るのをやめて、現実をそのまま認めて「これで善いのだ」と思えたら「無罜礙(むけいげ)」つまり差し障りは一切なくなり、真に自由になる、という意味に解せます。幸せは、現実として自分に嵌(は)められている枷を素直に肯定できる中にこそあるのだ、ということですね。 信は軛(くびき)という首枷なのだ、と得心(とくしん)して信を実践できたならば、そのような人を孔子は、人として認めることができる、ということではないでしょうか。 孔子は七十歳に至るまでこの信を実践し続けて、遂(つい)に「心の欲する所に従えども矩(のり)を踰(こ)えず」(為政第二、四章)という悟りの境地に達したのですね。前 次 ''&size(32){☆ 為政第二 二十二章};'' #br '' 子曰 人而無信 不知其可也 大車無輗 小車無軏 其何以行之哉'' #br 子曰く、人にして信(しん)無くば、其の可(か)なるを知らず。大車(たいしゃ)に輗(げい)無く、小車(しょうしゃ)に軏(げつ)無くば、其(そ)れ何を以(もっ)てか之(これ)を行(ゆ)かしめんか。 #br ''☆ 意訳 (心理屋の勝手解釈)'' 先生が言われました。 人は独りで生きていくものではありません。皆と共に生きているのです。共に生きていくためには、お互いに信頼し合うということが、最も重要なことです。人であるにも関わらず、自分の都合だけで嘘をついたり約束を破ったりと、信頼の置けないことばかりをするような者を、私は人として認めることはできません。 大きな荷車の牛車(ぎゅうしゃ)も、人を乗せる馬車も、荷物や人を乗せる車輪の付いた箱と、動力源である牛や馬とを繋(つな)ぐ、轅(長柄ながえ)の先の軛(頸木くびき)という横木がなければ、車として動くことはできません。輗(げい)や軏(げつ)という軛(くびき)で両者が確りと繋がっていないと、車は何処(どこ)にも行くことができないのです。 人にとっては、信頼関係、責任ある言動こそが、他人(ひと)と我とを繋ぎ止める軛(くびき)になっているのです。常に責任ある言動でもって信頼を得ることで、皆と共に何処にでも行くことができるようにありたいものです。 #br ''☆ 補足の独言'' 孔子は世の隠者達を尊敬していたように思います。隠者達は孔子を非難軽蔑していた節が見受けられます。詰まり、孔子は隠者達を理解していたが、隠者達は孔子をよう理解しなかった、ということでしょうね。 孔子は隠者を認めて尊敬していましたが、一点だけは認められなかったようです。それは、他人への信頼関係を絶っていることです。信頼関係を絶って独りになれば、多くの煩わしさが解消して、彼等が言うように楽になるでしょう。しかしそれは、決して悟りの境地などではなくて、単なる逃避であるに過ぎません。 孔子は、裏切られても裏切られても、最後まであきらめることなく人を信じ続けていきました。言い替えれば、他人(ひと)が自分を信じるに足る言動をとり続けました。決して裏切ることも、無責任な言動もしなかったのです。そのような孔子だからこそ言える言葉なのでしょう。 「人にして信無くば、其の可なるを知らず(人であるのに信が無いというのば、そのような人を私は人として認めることはできない)」何という激しい言葉でしょう。 #br ・この章は、孔子の中に有る二つの想いが重なって出ているように思います。 一つは自分自身の心の構造、在り方です。もう一つは、社会の中での自分自身の在り方と関係性の在り方です。 自分の芯に信がなければ、しっかりした堂々たる車として、自分の進みたい道、進む可き道を行くことはできません。信でもって自分を自分の意志通りに動ける車にしなければならない、ということです。 そして人々との関係に於いては、皆で助け合っていかねば、社会は成立しません。社会全体が「しあわせな生活」を目指す一つの車となって進んでいくためには、皆が繋がるための軛(くびき)が必要です。その役割を担うのが「信」なのだということですね。 自分を成長させるための「信」と、皆が安心して暮らせるようになるための「信」です。 この「信」が、「軛(くびき)」で譬えられているのが凄いなあ、と考えさせられます。軛は頸木(くびき)であり、牛や馬を車に縛(&size(24){しば};&size(24){)り付けておくものですよね。首枷(くびかせ)のようなものです。真実「信」は、首枷なのだ、ということです。首枷が外れたら、無責任になってしまいます。信は自分を律(りっ)する非常に厳しいものなのだ、ということです。}; 大学の時に、白川静先生の金文(きんぶん)の講義で学んだことなのですが、「幸(こう)」という字は「手枷」「足枷」「首枷」の「枷(かせ)」を表す字なのだそうです。衝撃でした。「幸(しあわせ)」とは、縛られること、自由が奪われることなのだ。確かに自由にして下さい」と言われると戸惑って不自由になる人は多いし、言われたことはできる、という人も多い。しかしもっと深い意味がありそうだ。よく考えてみると、総ては宇宙の法則の中にある。この法則は絶対的な縛りです。この法則から抜け出して自由になることなど絶対にできません。この縛りを全面的に認めて従ったときに初めて、本当の自由が得られるのです。現実は現に実在しているのですから、否定しても、なくなったり変わったりするものではありません。否定すれば苦しいだけです。般若心経に「色即是空(しきそくぜくう)」とありますがこれは、何が在るとか無いとかに拘(こだわ)っている限り総てが自分を阻(はば)むものになる。在る無いに拘(こだわ)るのをやめて、現実をそのまま認めて「これで善いのだ」と思えたら「無罜礙(むけいげ)」つまり差し障りは一切なくなり、真に自由になる、という意味に解せます。幸せは、現実として自分に嵌(は)められている枷を素直に肯定できる中にこそあるのだ、ということですね。 信は軛(くびき)という首枷なのだ、と得心(とくしん)して信を実践できたならば、そのような人を孔子は、人として認めることができる、ということではないでしょうか。 孔子は七十歳に至るまでこの信を実践し続けて、遂(つい)に「心の欲する所に従えども矩(のり)を踰(こ)えず」(為政第二、四章)という悟りの境地に達したのですね。 #br #br CENTER:[[前>2 為政第二 21]] [[次>2 為政第二 23]] LEFT: ページの更新 通常編集モードに切り替える データ参照プラグイン 入力支援ツールを表示 ▼参照先ページ選択:データを表示 元データの書式(インラインプラグイン)を継承する