9 子罕第九 19
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☆ 子罕第九 十九章
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子曰 譬如爲山 未成一簣 止吾止也 譬如平地 雖覆一簣 進吾往也
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子(し)曰(いは)く、譬(たと)へば山(やま)を為(つく)るが如(ごと)し。未(いま)だ一簣(いっき)を成(な)さずして、止(や)むは吾(わ)が止(や)むなり。譬へば地(ち)を平(たひ)らかにするが如(ごと)し。一簣を覆(くつがへ)すと雖(いへ)ども、進(すす)むは吾(わ)が往(ゆ)くなり。
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☆ 意訳 (心理屋の勝手解釈)
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先生が言われました。
「山を作ったり、大地を平らかにしたりするためには、竹籠に土を盛って一杯づつ運ぶ、という地道な作業の積み重ねが必要です。
山を作ろうとするときには、そうやって一籠(ひとかご)一籠土を積み上げていくのですが、最後の一籠を積み終える前にやめてしまっては何にもなりません。山は未だできていないのです。それまでの総ての苦労が無駄になってしまいます。何と言い訳しようと、それは自分がやめたのです。その責任はやめた自分にあります。
まあ実際にはそのようなことはありませんがね。何割の完成度であっても、そこまでやったのですから、やっただけの成果は残ります。しかし何事も、やるからには最後まで必ずやり遂げる、という気迫、気概(きがい)が必要です。そうでなければ本当に佳(よ)い仕事はできません。「一簣(いっき)を欠かない気概」最後の一盛りを必ず盛り終える、という気迫が大切なのです。
事の締(し)めに於いては今言ったことが大切ですが、事の始めに就いてもこのようなことが言えるでしょう。
凸凹(でこぼこ)の大地の穴を埋めて平らに均(なら)す、という状況を考えてみてください。始めの一歩は、一籠の土を穴に運んで埋める、ということです。この行動が起こせなかったなら、何も始まりません。この始めの一歩の行動を起こすのは、とても大きな精神力のいることです。最初の一籠の土を運び入れることができたならば、たとえまだ平らかになってはいなくとも、その作業は一歩進んだ、と言えるのです。それは自分がやったことなので、自分自身が前進した、ということなのです。
この一歩の前進ができれば、あとは只管(ひたすら)完了するまでやり続ければよいだけです。
また、譬えに挙げた山作のような大事業になりますと、独りで成すことなどとてもできません。何百人何千人或いはそれ以上の人たちの協力が必要です。各自がそれぞれ自分の責任を自覚していなければなりません。自分がしなくても誰かがするだろう、とか、自分一人くらい抜けても構わないだろう、といった、大衆を隠れ蓑(みの)にした狡(ずる)さは、無責任の極みです。
誰かが始めるだろうと思ってし始めようとしないのは、自分がしないのです。誰かがやってくれるだろうと思ってさぼるのは、これも自分がしないのです」
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☆ 補足の独言
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これは今の心理用語で言えば、自己責任の大切さ、ということになるでしょう。
孔子の言葉は基本的に対機説法(たいきのせっぽう)ですから、何等かのことで自己責任を放棄しようとした弟子に対する御説教、とイメージしてもよいかと思います。善きにつけ悪しきにつけても、自己責任を確(しっか)りと自覚することが大切だ、ということを伝えるための誇張表現なのでしょう。
見方によっては、これは「信」、乃ち「他人(ひと)から信頼される人物になる」ということの本質を説いたもの、とも言えるのかなあ、と思います。
現代風に言えば、「信」の本質は「思いやり」と「責任感」である、ということになるでしょう。