9 子罕第九 1
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☆ 子罕第九 一章
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子罕言利與命與仁
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子(し)、罕(まれ)に利(り)と命(めい)と仁(じん)とを言(い)ふ。
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☆ 意訳 (心理屋の勝手解釈)
愚かな弟子がこんなことを言っていました。
「先生は、如何(どう)すれば出世できるのか、儲(もう)かるのか、ということと、天命や仁という深遠な重大事については殆(ほとん)ど何も教えてくれませんでした。」と。
このお弟子さんの一番の関心事は、出世と損得だったようです。先生の目指すところは、世の中の安定と庶民の安心だったので、個人の欲望を満たすための出世や金儲けの方法など、教えてくれる訳がありません。
「天命」は、天から各個人に与えられるものです。「人事を尽くして天命を待つ」と言いますが、彼が自分のできることを精一杯やっている、とはとても思えません。そのような彼にとっては、天命は未だ未だ無縁なものです。そのような無意味なことを、先生が言ってくれる訳がありません。
「仁」という言葉は先生は使いませんが、仁とは相手を敬い大切にして、思慮深く思い遣る心です。これに関しては、先生は常に、至るときに至るところで、その大切さを説いています。
「仁」に関しては、常に具体的に教えを受けているのに、それが解らず、自分でも解らない抽象的な仁という観念を勝手に創造(想像)して、先生は教えてくれない、と言っているのです。これでは、愚かな弟子、としか言いようがないですね。
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☆ 補足の独言
聞くところによると、『論語』の大半は後世(漢代)の創作とのことです。
私としては、できる限り「これが本当であったならば如何理解すれば良いのであろうか」と考えて、自分の創作捏(でっ)ち上げを楽しむようにしています。が、それが不可能なときが時々あります。そのような場合は、より妄想チックな捏ち上げを楽しんで、その場を凌(しの)いでおります。
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☆ 残念なお知らせ
『論語』を読んでいて、その解釈に疑問が次から次へと湧いてきました。それで自分なりに、あゝではないかこうではないかと考えていたのですが、実は、眼医者から失明の可能性を告げられ、これはやばいと思っていたところにコロナ禍で暇になり、これ幸いとパソコンの先生についてパソコンを習い始め、この「心理屋の論語」を書き始めました。見える内に少しでも言いたいことを書いておこう、と思ったからです。そして何とか半分の第十までいきたかったのですが、第八を終えた後で突然急に視力が悪化して、ほとんど字が見えなくなり、パソコンが打てなくなってしまいました。IPS細胞による施術ができるようになるまで、しばしの中断を余儀なくされた次第です。
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読んでくださっていた皆様には、感謝の気持ちでいっぱいです。私自身は、何年か後には、必ずまた書けるようになると信じていますので、その時まで、一緒に待って頂けたら嬉しいです。ではみなさん、これでしばしのお別れです。また会う日まで。