3 八佾第三 21 のバックアップ(No.1)
☆ 八佾第三 二十一章
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哀公問社於宰我 宰我對曰 夏后氏以松 殷人以柏 周人以栗 曰使民戰栗 子聞之曰 成事不説 遂事不諫 既往不咎
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哀公(あいこう)、社(しゃ)を宰我(さいが)に問ふ。宰我対(こた)へて曰く、夏后氏(かこうし)は松(まつ)を以てし、殷人(いんひと)は柏(ひのき)を以てし、周人(しゅうひと)は栗(くり)を以てす。曰く、民(たみ)をして戦栗(せんりつ)せしむと。子之を聞きて曰く、成事(せいじ)は説(と)かず、遂事(すいじ)は諫(いさ)めず、既往(きおう)は咎(とが)めず。
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☆ 意訳 (心理屋の勝手解釈)
孔子が魯国を追放され流浪の旅に出たのは定公が王さんの時でした。十四年後に許されて魯国に帰ってきた時には、王さんは定公の子の哀公になっていました。哀公と孔子の付き合いは孔子の晩年の五年程の間だけですが、このようなこともあったようです。
哀公は孔子を信頼していましたが、決断力に欠けるところがあって、孔子の大局を見通した厳しい進言には、尻込みをして逃げてしまうことがありました。そのためか如何(どう)か、或る時、孔子のいないときに、弟子の宰我に相談したそうです。
社の前には何の木を植えたら良いかのう。
そこで宰我は答えて申し上げました。
古来、人類初の、天より賜(たまわ)った王朝である夏は松の木を植えました。夏から受け継いだ殷の王朝は、柏(ひのき)を植えました。そして殷から受け継いだ周王朝は、栗の木を植えております。松の木は太く節くれ立って高く聳(そび)え、実に威風堂々としております。柏(ひのき)はより高く天まで聳え、豊かに葉を茂らせて我々を見守ってくれています。どちらの木も四季を通じて枯れることなく永久(とこしなえ)に民を守ってくれているのです。それ故に、変わらぬ愛、永続する平和を「松柏(しょうはく)」というのです。その伝統の上に立って、周は、罪人を裁(さば)く西の社の西に栗の木を植えて、栗(りつ)と音の通じる慄(りつ)を思い起こさしめて戦慄せしめ、悪を防ごうとしたのです。
先生はこの話を後から聞いて、こう言われました。
うむ、なるほど、さすがは宰予(宰我)君ですね。夏殷の解釈は美事です。しかし周に関してはとんでもない間違ったこじつけになっていますね。優柔不断な哀公の尻を叩きたい気持は解りますが、この解釈は戴(いただ)けません。
私は皆さんに何時も言っていますね。「之(これ)を道(みちび)くに政(まつりごと)を以(もっ)てし、之を斉(ととの)ふるに刑(けい)を以てすれば、民(たみ)免(まぬが)れて恥(はぢ)無し。之を道(みちび)くに徳(とく)を以てし、之を斉(ととの)ふるに礼(れい)を以てすれば、恥有りて且(かつ)格(ただ)し。」(為政第二、三章)と。
周は礼の国です。民を戦慄せしめる等(など)とは以(もっ)ての外(ほか)です。松柏の大きな守りの上に立って、民に豊かな実りを齎(もたら)せたい、その象徴が栗の木なのです。栗の字は、西の刑場で恐れ戦(おのの)かせる木、という意味ではありません。西の字形は、栗の実の豊かにふっくらと膨(ふく)らんだ姿を表現したものです。食が豊かなことがしあわせ、平和の基本ですからね。
しかしまあ、言ってしまったことは、説明しても叱っても罰しても意味はないですから。
その後、孔子から宰我には何のお咎(とが)めもなかったようです。
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☆ 補足の独言
愈々(いよいよ)宰我(さいが)の登場です。というのは、「論語」に登場する「宰我」という弟子の人物像が、私には全く解らないからです。孔子の宰我に対する非難の口調は、尋常ではありません。不満や非難の表現が全く孔子らしくありません。もっと明瞭(はっきり)言うと、小人そのものです。誰かが悪意を持って宰我を貶(おとし)めるために、話を歪(ひず)めたり捏(でっ)ち上げたりしているのではないかと思えるのです。その所為(せい)で図らずも、というより恐ろしいことに、孔子の人格までも貶められることになってしまっているのではないか、と。
宰我は、情よりも理論の人だったのでしょうね。合理的精神が勝ち過ぎて、情に惑わされて事態を混乱させてしまう感情的な弟子達に対する共感同情が無さ過ぎたのでしょう。それで何時でも正論を通して、感情に流れて混乱してしまう弟子仲間を遣(や)り込めていたのではないでしょうか。それがために、為(し)て遣(や)られた連中から恨まれ憎まれることになってしまったのではないのかな、と。この恨みは一部の弟子にとっては、骨髄に達するほどの大きなものであったようです。
この文章をそのまま真に受けると、孔子は宰我の間違った説明に対して絶望的な嘆かわしい思いを持ち、同じことを言葉を変えて三度も繰(く)り返して愚痴り、自分の感情を抑(おさ)えた、ということになってしまいます。これでは丸で、聖人孔子ではなく小人孔子となり、これはもう全く考えられないことです。宰我への恨みから捏造(ねつぞう)若しくは改竄(かいざん)した報告者は、宰我の酷(ひど)さを強調するために、尊敬する大先生をも貶(おとし)める愚をしでかしてしまったようです。