3 八佾第三 22

Last-modified: Wed, 15 Dec 2021 00:06:08 JST (871d)
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☆ 八佾第三 二十二章

 

 子曰 管仲之器小哉 或曰 管仲儉乎 曰 管氏有三歸 官事不攝 焉得儉 然則管仲知禮乎 曰 邦君樹塞門 管氏亦樹塞門 邦君爲兩君之好 有反坫 管氏亦有反坫 管氏而知禮 孰不知禮

 

 子曰く、管仲(くわんちゅう)の器(うつは)は小(せう)なるかな。或ひと曰く、管仲は倹(けん)なるか。曰く、管氏(くわんし)に三帰(さんき)有り。官事(くわんじ)摂(か)ねず。焉(いづく)んぞ倹たることを得んと。然(しか)らば則(すなは)ち管仲は礼(れい)を知れるかと。曰く、邦君(はうくん)は樹(じゅ)して門を塞(ふさ)ぐ。管氏も亦(また)樹して門を塞ぐ。邦君、両君(りゃうくん)の好(よしみ)を為すに、反坫(はんてん)有り。管氏も亦反坫有り。管氏にして礼を知らば、孰(たれ)か礼を知らざらん。

 

☆ 意訳 (心理屋の勝手解釈)

 先生が「えゝっ?」と皆が吃驚(びっくり)するようなことを言われました。

 管仲(かんちゅう)はどうも器(うつわ)の小さな人物であったのではないか、という気がするが如何(どう)なのかなあ・・・

 管仲は孔子より百数十年位前に活躍し、魯の隣国斉(せい)の桓公(かんこう)を戦国の覇者(はしゃ)にした、歴史上最大の英雄です。まさかその英雄にけちを付けるなんて、とみんな我が耳を疑いました。それで皆から次々と質問が発せられました。先生はその質問の一つ一つを熟考(じゅっこう)して答えられながら、自分の中に湧き起こってきた疑問を整理していかれたのです。

 ある人が質問しました。

 管仲が質素で倹約家であって、みみっちかったということでしょうか。

 そう言われて先生は言われました。

 うむ。それは違いますね。寧(むし)ろ反対でしょう。管仲は家を三軒も持っていました。その上、部下達に仕事を兼任させていません。けちった渋ちんなところは全くなくて、配下の者達には働き易い労働環境ではあったでしょうね。しかし、倹(けん)というには程遠い、贅沢(ぜいたく)な暮らし振(ぶ)りだったようです。

 倹ということではないとすれば、礼を厳しく守り過ぎて融通(ゆうずう)が利かなかったということなのでしょうか。

 そう言われて先生は答えられました。

 いやいやそれも違いますね。それこそ正反対でしょう。国王は、家の門の内側に、中が覗(のぞ)き見られないように木を植えています。管仲も自分の家の門に木を植えています。これは王さんにしか許されていないことです。それにまた、王さんは他国の王さんとの友好親善を図るために、応接室に、飲み干した杯(さかづき)を伏せて置くための反坫(はんてん)という台を置いています。管仲も自宅の応接室に反坫をおいています。こんなことをしている管仲を「礼を知っている人」と言うならば、世の中、礼を知らない人なんて何処にいるんだ、ということになるでしょうね。

 管仲は家来の身分でありながら、王様気取りでいたようです。これは恐らく管仲の君、主人である斉の王さんの桓公(かんこう)が望んで奨(すす)めたことではないのかなと思いますが、君子、すなわち心の大きな人であるためには、謙譲(けんじょう)の心が何時でもあらねばなりません。

 うん。解ってきました。私の深く尊敬する偉大な管仲ですが、この礼の謙譲に欠けている点が私の中で引っ掛かっていたようです。ただ、同じ礼を逸(いっ)した王さん気取りでも、自分が権力を手に入れたいだけで民を顧(かえり)みない三桓と同一に論ずることはできないですね。・・・ はい。すっきりしました。

 

☆ 補足の独言

 この章を初めて読んだとき、そうか、孔子は管仲を小人、心の小さな人と捉えているのか、と単純に思い込んでいました。ところが読み進んでいくと、「憲問十四」で再び管仲が登場しましたが、今度は君子、心の大きな人としての最高評価な訳です(憲問十四の十章、十七章、十八章)。思わず吃驚(びっくり)して混乱してしまいました。そして深く反省しました。

 「言葉に囚われてはいけない。言葉は何時でも総てを表現することはできないものである。如何(どん)な言葉も一面だけしか表現されていない。表現された言葉の裏には、表現されなかった何かが必ずある。それが何かは決して解るものではない。このことを何時も心の中に置いておかなければ、心の世界など、入(はい)れるものでも近づけるものでもない。」''

 このことを忘れていたなあ、と。それで、こんな訳にしてみました。

 

☆ 独言の補足

 若しかしてこれは、仏典と同じように、孔子の心の中(うち)での思考作業を、現実の会話という形式で表現したものではないのか、と思っています。仏典では釈迦の迷い、葛藤、苦しみ、決断といった心の作業を、悪魔や梵天(ぼんてん)(善の最高神)との会話という形式で表現しています。論語のこの章も、孔子の内に生じた疑問を自己内対話でもって解いていく過程が描(えが)かれているのではないか、と思うのです。

 孔子は、多分斉の国に行った若い頃、この国の偉大な英雄である管仲のことを調べていて、感動すると同時に、何か納得し切れないものを感じていたのでしょう。孔子はそれが何か解らないので、自問してみました。

 自問の経過:「管仲は吝嗇(けち)なのだろうか」「嫌(いや)、違う、反対だ。そうか、君子として大切な倹(けん)ができていないのだ。」「それともう一つ、管仲は礼を尽くして桓公に仕え、桓公を覇者たらしめて人民に安堵と平和を齎(もたら)せた。礼も完璧である。では、礼が硬過ぎるということであろうか」「嫌、これも違う。反対だ。桓公の要請であったにせよ、王様気取りの振る舞いは礼に反している。斯(か)くまで偉大な君子であり仁者である管仲なのに、この点が欠けている。」「そうか、それが私にとっては残念でならぬところなのだ、と今腑に落ちたぞ。勿論そうではあっても、その業績は、管仲が偉大な仁者であることを証明していることには変わりないな。」

 孔子の中で、このような思考作業が行われて、それを掻い摘まんで弟子に話したのでしょう。「或曰」の或(あるひと)を「自分が自分に」と取れば、全体の筋が綺麗に流れるように思います。