2 為政第二 10 のビジュアル編集 Top > 2 為政第二 10 ☆ 為政第二 十章 子曰 視其所以 觀其所由 察其所安 人焉廋哉 人焉廋哉 子曰く。其の以(な)す所を視(み)、其の由(よ)る所を観(み)、其の安(やす)んずる所を察(み)れば、人焉(いづく)んぞ廋(かく)さんや、人焉んぞ廋さんや。☆ 意訳 (心理屋の勝手解釈) 先生が言われました。 人を、人の心を理解するためには、次元の違う三つの「見る」ということができれば善いのです。三つというのは「過去、現在、将来」の時相とも言えますし、「目に見える世界、その裏に在る世界、そのまた奥の芯にある世界」という深さの違いとも言えます。「海面、海中、深海」の三次元と譬(たと)えてもよいでしょうね。 第一の次元は「現在」。今ここに居る(カウンセリングで言うbe here now)その人(の行動)を微(び)に入り細(さい)に亙(わた)って観察することです。仏教で言う八正道の一番、「正見(しょうけん)」に相当するものでしょう。(勿論、孔子と釈迦は同時代の人ですから、お互い、同じようなことを言っているなどとは知りようがありませんが。)これだけでも大変に困難なことですが、これができるだけでも随分と人が見えてきます。 第二の次元は「過去」です。何故(なぜ)この人がこうなのか、その因(よ)って立つところを理解することです。八正道の正思(しょうし)(正思惟)に相当するかな、と思います。今の現象を見るだけでは解らない、その裏にある因果(いんが)因縁(いんねん)を能く観て考えることで、その人の実態がまた一段と鮮明(せんめい)になってきます。この「観る」作業は、第一次元の「視る」作業と比べてより難しくなってきますが、これもとても大切な作業です。 そして愈々(いよいよ)最も難しい第三の次元、「将来」を察(み)る作業になります。これは心を観る作業であり、心を看(み)る作業です。その人の行動や在り方にどの程度その人の本当の素(す)の安定した心が現れているのか。正しい心で以て振(ぶ)れることなく実践できているのか。これは理屈で解るものではありません。人生経験を総動員した「勘」で察しなければならないものです。 「心を看る」というのは、その人のことを深く理解して納得できれば、温かく理解して恕(ゆる)す目で看守ることができる、ということの表現です。この「温かく看る」作業でもって全体的に俯瞰(ふかん)できたならば、それが「察(さつ)」です。最も深い「察(み)る」ということですね。 ここまでできましたならば、例えば誰かが悪心を隠して騙そうとしてきても、決して露顕(ろけん)しない訳にはいきません。必ずや、本心が日の下(もと)に曝(さら)されます。善いことも同じです。 他人(ひと)も自分も、善いことも悪いことも、総てが明々白々な人間関係の中で、孔子の理想とする忠恕の世界が築かれていくのでしょう。☆ 補足の独言 この章も古来様々な解釈がありますが、私は、これは孔子が自分の人間理解の仕方を教えてくれているものだ、と理解します。そう考えると、ここで言われていることは、カウンセリングの人間理解と全く一致するのです。 人間理解で一番大切なものは「恕(じょ)」です。カウンセリングでは「受容」と言いますが、恕の心がなければ、受容も形骸化して、カウンセリング臭い偽物(にせもの)の偽善(ぎぜん)になってしまいます。 孔子を「一言(いちげん)以てこれを蔽(おお)う」ならば「恕の人」あるいは「忠恕(ちゅうじょ)の人」と呼べるでしょう。総ての人を温かく看たいと、自分に対して何時も願っている孔子。本当に人類の教師として、最高のお手本になってくださっています。前 次 &size(32){☆ 為政第二 十章}; #br '' 子曰 視其所以 觀其所由 察其所安 人焉廋哉 人焉廋哉'' #br 子曰く。其の以(な)す所を視(み)、其の由(よ)る所を観(み)、其の安(やす)んずる所を察(み)れば、人焉(いづく)んぞ廋(かく)さんや、人焉んぞ廋さんや。 #br ''☆ 意訳 (心理屋の勝手解釈)'' 先生が言われました。 人を、人の心を理解するためには、次元の違う三つの「見る」ということができれば善いのです。三つというのは「過去、現在、将来」の時相とも言えますし、「目に見える世界、その裏に在る世界、そのまた奥の芯にある世界」という深さの違いとも言えます。「海面、海中、深海」の三次元と譬(たと)えてもよいでしょうね。 第一の次元は「現在」。今ここに居る(カウンセリングで言うbe here now)その人(の行動)を微(び)に入り細(さい)に亙(わた)って観察することです。仏教で言う八正道の一番、「正見(しょうけん)」に相当するものでしょう。(勿論、孔子と釈迦は同時代の人ですから、お互い、同じようなことを言っているなどとは知りようがありませんが。)これだけでも大変に困難なことですが、これができるだけでも随分と人が見えてきます。 第二の次元は「過去」です。何故(なぜ)この人がこうなのか、その因(よ)って立つところを理解することです。八正道の正思(しょうし)(正思惟)に相当するかな、と思います。今の現象を見るだけでは解らない、その裏にある因果(いんが)因縁(いんねん)を能く観て考えることで、その人の実態がまた一段と鮮明(せんめい)になってきます。この「観る」作業は、第一次元の「視る」作業と比べてより難しくなってきますが、これもとても大切な作業です。 そして愈々(いよいよ)最も難しい第三の次元、「将来」を察(み)る作業になります。これは心を観る作業であり、心を看(み)る作業です。その人の行動や在り方にどの程度その人の本当の素(す)の安定した心が現れているのか。正しい心で以て振(ぶ)れることなく実践できているのか。これは理屈で解るものではありません。人生経験を総動員した「勘」で察しなければならないものです。 「心を&size(24){看る」というのは、その人のことを深く理解して納得できれば、温かく理解して恕(ゆる)す目で看守ることができる、ということの表現です。この「温かく看る」作業でもって全体的に俯瞰(ふかん)できたならば、それが「察(さつ)」です。最も深い「察(み)る」ということですね。}; ここまでできましたならば、例えば誰かが悪心を隠して騙そうとしてきても、決して露顕(ろけん)しない訳にはいきません。必ずや、本心が日の下(もと)に曝(さら)されます。善いことも同じです。 他人(ひと)も自分も、善いことも悪いことも、総てが明々白々な人間関係の中で、孔子の理想とする忠恕の世界が築かれていくのでしょう。 #br ''☆ 補足の独言'' この章も古来様々な解釈がありますが、私は、これは孔子が自分の人間理解の仕方を教えてくれているものだ、と理解します。そう考えると、ここで言われていることは、カウンセリングの人間理解と全く一致するのです。 人間理解で一番大切なものは「恕(じょ)」です。カウンセリングでは「受容」と言いますが、恕の心がなければ、受容も形骸化して、カウンセリング臭い偽物(にせもの)の偽善(ぎぜん)になってしまいます。 孔子を「一言(いちげん&size(24){)};&size(24){以てこれを蔽(おお)う」ならば「恕の人」あるいは「忠恕(ちゅうじょ)の人」と呼べるでしょう。総ての人を温かく看たいと、自分に対して何時も願っている孔子。本当に人類の教師として、最高のお手本になってくださっています。}; #br CENTER:[[前>2 為政第二 9]] [[次>2 為政第二 11]] #br ページの更新 通常編集モードに切り替える データ参照プラグイン 入力支援ツールを表示 ▼参照先ページ選択:データを表示 元データの書式(インラインプラグイン)を継承する