8 泰伯第八 16 のビジュアル編集 Top > 8 泰伯第八 16 段落 16px <p><strong><span style="font-size:32px; line-height:130%">☆ 泰伯第八 十六章</span></strong></p><br /><p><strong> 子曰 狂而不直 侗而不愿 悾悾而不信 吾不知之矣</strong></p><br /><p> 子(し)曰(いは)く、狂(きゃう)にして直(ちょく)ならず、侗(とう)にして愿(げん)ならず、悾悾(こうこう)として信(しん)ならず、吾(われ)之(これ)を知(し)らず。</p><br /><p><strong>☆ 意訳 (心理屋の勝手解釈)</strong></p><p> 先生が言われました。</p><p> 人は誰でも必ず長所を持っています。欠点ばかりで取得(とりえ)の全く無い者などいる訳がありません。</p><p> 短気で猪突猛進的な者には、実直な良さがあります。知恵の劣る者には、真面目で慎(つゝし)み深い律儀(りちぎ)さがあります。愚直な者は、他人(ひと)を欺(あざむ)くようなことはありません。</p><p> 直ぐ切れるくせに狡(ずる)賢い人とか、愚かなくせに不真面目で律儀でない人とか、無能なのに自分の中から湧き起こる感情に素直でない人とか、そのような人を私は知りません。未(いま)だ曽(かつ)て会ったことがないですね。そのような人が居るならば、是非とも会ってみたいものです。教育者としては、このような人をこそ教育したいものです。これほど遣り甲斐(がい)のある仕事はないではないですか。</p><p> 出来が悪かったり、心に歪(ひづ)みを持っていたり、という人を、彼奴(あいつ)は駄目な奴だ、と切り捨てるようでは、教育者として失格ですね。</p><br /><p><strong>☆ 補足の独言</strong></p><p> 普通にはこう訳されるのかな、と思います。</p><p> 「先生が言われました。</p><p> 衝動的な者は正直なものだが、その正直さがない。無知な者は真面目で慎み深いものだが、その慎み深さがない。無能な者は誠実なものだが、その誠実さがない。このような者に対しては、私には手の施しようがありません。」</p><p> これも、孔子の大きさが理解できない愚かな儒者が、「こんな箸(はし)にも棒にもかゝらぬ愚かな手合いは、流石(さすが)の孔子大先生もお手上げに違いない」と高(たか)を括(くゝ)って、自分の愚かさには全く思いも至らずに捏(でっ)ち上げたものと思われます。何故そんなことができたのか、と考えてみますと、孔子を見縊(みくび)るにも程がありますが、「自分は孔子と同程度に賢いのだ、他(ほか)の奴等は馬鹿なのだ」という、孔子の一番嫌う思い上がり、傲慢さがあるからではないでしょうか。</p><p> お手上げだ、ということは、教育者としての敗北宣言である、ということにも気付かないのでしょうか。それで、少しでも孔子らしくなるように、と思って、このように訳を捏ち上げてみました。</p><br /><div style="text-align: center"><a href="8 泰伯第八 15">前</a> <a href="8 泰伯第八 17">次</a></div><br /> ''&size(32){☆ 泰伯第八 十六章};'' #br '' 子曰 狂而不直 侗而不愿 悾悾而不信 吾不知之矣'' #br 子(し)曰(いは)く、狂(きゃう)にして直(ちょく)ならず、侗(とう)にして愿(げん)ならず、悾悾(こうこう)として信(しん)ならず、吾(われ)之(これ)を知(し)らず。 #br ''☆ 意訳 (心理屋の勝手解釈)'' 先生が言われました。 人は誰でも必ず長所を持っています。欠点ばかりで取得(とりえ)の全く無い者などいる訳がありません。 短気で猪突猛進的な者には、実直な良さがあります。知恵の劣る者には、真面目で慎(つゝし)み深い律儀(りちぎ)さがあります。愚直な者は、他人(ひと)を欺(あざむ)くようなことはありません。 直ぐ切れるくせに狡(ずる)賢い人とか、愚かなくせに不真面目で律儀でない人とか、無能なのに自分の中から湧き起こる感情に素直でない人とか、そのような人を私は知りません。未(いま)だ曽(かつ)て会ったことがないですね。そのような人が居るならば、是非とも会ってみたいものです。教育者としては、このような人をこそ教育したいものです。これほど遣り甲斐(がい)のある仕事はないではないですか。 出来が悪かったり、心に歪(ひづ)みを持っていたり、という人を、彼奴(あいつ)は駄目な奴だ、と切り捨てるようでは、教育者として失格ですね。 #br ''☆ 補足の独言'' 普通にはこう訳されるのかな、と思います。 「先生が言われました。 衝動的な者は正直なものだが、その正直さがない。無知な者は真面目で慎み深いものだが、その慎み深さがない。無能な者は誠実なものだが、その誠実さがない。このような者に対しては、私には手の施しようがありません。」 これも、孔子の大きさが理解できない愚かな儒者が、「こんな箸(はし)にも棒にもかゝらぬ愚かな手合いは、流石(さすが)の孔子大先生もお手上げに違いない」と高(たか)を括(くゝ)って、自分の愚かさには全く思いも至らずに捏(でっ)ち上げたものと思われます。何故そんなことができたのか、と考えてみますと、孔子を見縊(みくび)るにも程がありますが、「自分は孔子と同程度に賢いのだ、他(ほか)の奴等は馬鹿なのだ」という、孔子の一番嫌う思い上がり、傲慢さがあるからではないでしょうか。 お手上げだ、ということは、教育者としての敗北宣言である、ということにも気付かないのでしょうか。それで、少しでも孔子らしくなるように、と思って、このように訳を捏ち上げてみました。 #br CENTER:[[前>8 泰伯第八 15]] [[次>8 泰伯第八 17]] #br ページの更新 通常編集モードに切り替える データ参照プラグイン 入力支援ツールを表示 ▼参照先ページ選択:データを表示 元データの書式(インラインプラグイン)を継承する