7 述而第七 20
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☆ 述而第七 二十章
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子不語怪力亂神
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子(し)、怪力(くわいりょく)・乱神(らんしん)を語(かた)らず。
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☆ 意訳 (心理屋の勝手解釈)
先生は、現実にはあり得ない摩訶(まか)不思議な力や、おどろおどろしい人を恐怖に陥(おとしい)れるような霊魂や神(乱神)の話など、超常現象に関わるような話は一切されませんでした。多くの人は非現実への憧(あこが)れ(これは嫌な苦しい現実からの逃避ですが)と、恐いもの見たさという好奇心から、このような超常現象的な話に飛びつき、それに因(よ)って不安妄想を膨(ふく)らませて、理性を失ってしまい易(やす)いものです。そのような話は事実なのか錯覚や妄想なのかを証明することのできないものです。そんな解りようのないことににかまけて理性を失ってしまっていては如何しようもないですね。ですから先生は、そのようなことには一切触れられなかったのです。
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☆ 補足の独言
「怪力(かいりょく)・乱神」は、普通には「怪(かい)・力(りょく)・乱(らん)・神(しん)」と四つに分けて解釈されます。しかしそれでは、摩訶不可思議な妖怪変化や鬼神や祖霊の祟(たゝ)りのようなことは語らなかった、というので分かりますが、力(ちから)の正しい在り方や間違った在り方、世の中の乱れや心の乱れといったことに関しては様々に語っているように思います。それで四つに分けた解釈では「力(りょく)」や「乱(らん)」の説明に無理がいっているように思われます。
「怪力」「乱神」と二つに分けると、「怪(あや)しい力」と「乱れた神」ということになり、人心を惑(まど)わす確証のない噂(うわさ)に翻弄(ほんろう)されて理性を失ってしまう危険性を戒(いまし)めた態度、と理解できます。
しかし私の思うところでは、孔子は超常現象を否定しているのではありません。勝手に妄想して狼狽(うろた)えたり思い込んだりするな、と態度で訴えているのです。
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・ どうでも良いことですが、「怪力(かいりょく)」を「かいりき」と読むと、現代語の感覚が入ってきて、「物凄く強い力」という現実的な感覚に収まってしまう感じがします。現実にはあり得ないオカルト的な作用を表現するのには、「かいりょく」という耳慣れない読み方の方が適切かな、と思います。
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・ 私事(わたくしごと)ですが、今、佛教大学教授の斎藤英喜(さいとうひでき)先生の『いざなぎ流 祭文(さいもん)と儀礼』を読んでいます。これは正に、鬼神を信じてその呪詛(「すそ」と読みます)を呪詛(すそ)神の本来在る可き場に戻して人間界に災いの及ばないように祭文(祝詞(のりと))を読み上げる、という話です。呪詛(すそ)を呪詛返ししてやっつけるのではなく、敬うのです。このいざなぎ流を調査研究するために、斎藤先生は、いざなぎ流の太夫(たゆう)(神主のような役職)を全面的に信頼して弟子入するのです。正に怪力乱神の世界です。私にはこれが孔子の否定することと矛盾はしていないと思います。怪力乱神を恐れ逃げ惑うのではなく、その世界に入り込むことによって、愛が深くなり、その愛に因って益々理性が本当に深まってきている、と感じられるからです。このような学者さんがおられることは、私としては嬉しい限りです。
そして同じ「いざなぎ流」を調査研究している方で、高知県歴史民俗資料館主任学芸員の梅野光興(うめのみつおき)さんという方がおられます。一度お会いしたことがあるのですが、斎藤先生以上にその土地の人々の暮らしに密着して、いざなぎ流という宗教を愛し見詰めている姿勢に感動しました。
巫女(ふじょ)の子である孔子は、鬼神を否定したのではなくて、浅はかな好奇心で以て人々を脅(おど)して騒ぎ回り、鬼神を敬するどころか侮辱し足蹴(あしげ)にするような振る舞いを嫌(きら)ったのです。斎藤先生や梅野さんのような在り方を、孔子は何よりも喜んだのではないでしょうか。