3 八佾第三 25 のバックアップ(No.1)
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- 1 (2021-08-10 (火) 17:17:40)
- 2 (2021-08-11 (水) 00:00:57)
- 3 (2021-11-21 (日) 20:49:18)
☆ 八佾第三 二十五章
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子謂韶 盡美矣 又盡善也 謂武 盡美矣 未盡善也
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子、韶(せう)を謂(い)ふ。美(び)を尽(つ)くせり、又(また)善(ぜん)を尽くせり。武(ぶ)を謂ふ。美を尽くせり、未(いま)だ善を尽くさず。
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☆ 意訳 (心理屋の勝手解釈)
先生が「韶(しょう)」についての思いを語られました。
韶ほど素晴らしい音楽はありませんね。形式や響きの美しさは完璧です。そして舜(しゅん)の思い遣りの深さ、自己犠牲の精神力の逞(たくま)しさ、それは「仁(じん)」という言葉が最も相応(ふさわ)しい大きな心の在り方です。それが、そのまま音楽(詩舞を含めて)に表現されています。韶を聴けば、舜の偉大さが直接にこの身に、私の魂に伝わってきます。
先生は次いで「武」に対しての思いを語られました。
武はこれも素晴らしい音楽です。特に形式や響きの美しさは、矢張り非の打ち所のない壮麗さですね。しかし、魂の大きさが仁と言えるところまで達しているか、というと、未(ま)だ及ばない感じが否(いな)めません。それは、国を治めて世界に平和を齎(もたら)せるために覇(は)を用いざるを得なかった、という事情に因るのでしょうね。そのような武王の生前の勇姿や偉大な業績が彷彿として伝わってくる素晴らしい音楽です。
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☆ 補足の独言
一般に「韶(しょう)」は古(いにしえ)の聖天子舜(しゅん)の作った音楽、「武(ぶ)」は周王朝を建てた武王の作った音楽、といわれていますが、韶は舜を讃えた音楽、武は武王を讃えた音楽と理解した方が良いのではないかと思います。
音楽には心の総てが現れます。内面の真善美の在り様(よう)がそのまま音に乗って姿を見せてくれるのです。詩と音楽と踊りは、一体不離のものでしょう。この詩も音楽も踊りも、目に見える現実の奥の、見えない世界にどっしりと存在して潜(ひそ)んでいる心や魂の世界を、耳に聞こえ目に見えるものに変えて我々に知らしめしてくれるものなのです。ですから、韶の詩や楽や舞を見聞きすれば、舜が目の前に現れて、舜の魂が直接に私の魂に語りかけてきてくれるし、武の詩や楽や舞を見聞きすれば、武王が目の前に現れて、武の魂が直接に私の魂に語りかけてきてくれるのです。
韶は、詩も楽も舞も文献が残っていないようなので解りようがないのですが、武は詩経の中に「武」という詩があります。(詩経 周頌 臣工の什 285武)この章に語られている「武」と詩経の中にある「武」が同じものなのか別のものなのか解りませんが、詩経の「武」を参考にしてこの章を考えてみるのもあり、ではないかと思ってしてみました。
詩経の「武」を載せますので、これが正当か不当か考えてみて下さい。
武 [周頌 臣工の什 285]
於皇武王 〔於(あゝ)皇(おほ)いなる武王〕
無競維烈 〔競(きそ)う無き維(こ)の烈(いさをし)〕
充文文王 〔充(まこと)に文(ぶん)なる文王(ぶんわう)〕
克開厥後 〔克(よ)く厥(そ)の後を開きたまふ〕
嗣武受之 〔武(ぶ)を嗣(つ)ぎいきて之受け〕
勝殷遏劉 〔殷に勝ちて劉(ころ)すことを遏(とど)めん〕 を
耆定爾功 〔爾(なんぢ)の功(こう)を耆(いた)し定む〕
あゝ輝ける武王よ。比類なきこの功(いさおし)。実に仁徳教養高き父文王が。礎(いしずえ)築いたその後開き。辛酸(しんさん)越えて受け継ぐ父の夢。殷を倒して遂に暴虐防いだり。夢叶いしは武王の功業(いさおし)。