3 八佾第三 26

Last-modified: Thu, 12 Aug 2021 18:56:41 JST (995d)
Top > 3 八佾第三 26

☆ 八佾第三 二十六章

 

 子曰 居上不寛 爲禮不敬 臨喪不哀 吾何以觀之哉

 

 子曰く、上(かみ)に居(い)て寛(くわん)ならず、礼(れい)を為(な)して敬(けい)せず、喪(も)に臨(のぞ)みで哀(かな)しまずんば、吾何を以て之を観(み)んや。

 

☆ 意訳 (心理屋の勝手解釈)

 孔先生は、人類史上初の教育専門家と言われている人です。学ぶ志を持って弟子入してきた総ての人に対して、その人の個性を伸ばす指導を徹底してこられました。

 しかし流石(さすが)の孔先生も頭を抱えざるを得ない生徒が登場してきたようです。それが季康子(きこうし)のことか如何(どう)かは分かりません。

 先生が言われました。呟(つぶや)きのような独り言のような、自分の不甲斐(ふがい)なさを嘆き責めるような響きの籠もった、悩みの声でした。

 上に立つ立場になったならば、自分に仕えてくれる者達に対して、寛容な態度で接することが一番ですぞ、と繰返し教えてきたのだが。・・・分かりました、と言ってはいたが、何時まで経っても全くできるようになっていないなあ。・・・

 礼は心の在り方が最も大事だ、相手を敬う気持を態度で示してこそ美しい礼になるのだ、と口を酸っぱくして言ってきたが・・・形式だけは見事に覚えて、しかし横柄な態度で見下しているのが見え見えだ。あれでは皆に反感を持たれてしまうだろうに。困ったことだ。・・・

 だがしかし、それにも増して、葬儀の時が一番問題ですねえ。死者に対する惜別(せきべつ)の情、遺族の嘆き悲しみの情への深い共感がなければ、誰もついてきてはくれなくなるでしょう。・・・

 教育は、その人を能く観て理解して、その人に合った指導をしていくものです。ですが、このような人に対しては、何処(どこ)を如何(どう)観て如何指導していけば善いのか、私には未(ま)だ解りません。・・・

 教育者としての私の、大きな課題ですね。

 

☆ 補足の独言

 孔子は、来てくれる如何な人に対しても援助を惜しまなかった人です。こんな奴は観る価値もない、と切り捨てるような人ではありません。また問題を相手の所為(せい)にしてその相手を非難する、というようなことを思う訳がありません。

 この八佾(はちいつ)最後の章は、「教育者孔子」の真髄(しんずい)真骨頂(しんこっちょう)が、強烈に光を放っている章だと思います。