4 里仁第四 7 のバックアップ(No.1)
☆ 里仁第四 七章
br
子曰 人之過也 各於其黨 觀過斯知仁矣
br
子曰く、人の過(あやまち)は、各(おのおの)其の党(たう)に於てす。過を観(み)ては斯(ここ)に仁を知る。
br
☆意訳 (心理屋の勝手解釈)
先生が言われました。
私は五十歳過ぎの頃、大司寇(だいしこう)という司法の長である裁判官の仕事にも携(たずさ)わっていました。多くの犯罪を裁(さば)いてきましたが、間違って罰することがないように、可能な限り詳しく一つ一つの事件を調べてまいりました。そのことで教わったことが沢山あります。
一つは、間違いを犯すのは、その人が駄目な人、悪い人だからであるとは限らない、ということです。如何(どん)な人にも過(あやま)ちは起こり得るのです。ただ、その過ちの起こり方や種類には割と明確な傾向があるようです。それは、事件は環境境遇に因って大きく支配されている、ということです。何かが一つ違えばこの事件は起こっていなかっただろうに、と思えることもあります。何にしても犯罪をなくするためには、善い環境を整えることが一番重要なことだと分かりました。
また、過ちの仕方には、その人の人格が能く表れるものです。自己中で他者を顧みないが故に起こした犯罪、或る人への思い遣りが他の人の犠牲の上に成り立っていて傷付く人のことが見えていないが故の犯罪、思い遣りが思い込みでずれていて諍(いさか)いに発展して起こる犯罪、愛情が大き過ぎて視野が狭(せば)まってしまって起こす犯罪、等々(などなど)。孰れにしても、起こした犯罪を詳しく調べることに因って、関わる人達それぞれの人格や、その人達を取り巻く環境の問題性等が明瞭(はっきり)と見えてくるのです。人を裁くためには、広く詳しく調べた上で深く考えてでないとできないことです。
br
☆ 補足の独言
S.フロイトが「精神分析入門」で述べた、錯誤行為には無意識の意図がある、というのと似たようなことを、孔子は二千四百年も前に言っていたのですね。
フロイトは無意識の願望が失策行為に表れる、と言い、孔子は過ちを犯したときのその在り様や事後の対処には、その人の培(つちか)ってきた人格が現れる、と言うのです。