6 雍也第六 18 のバックアップ(No.1)
☆ 雍也第六 十八章
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子曰 知之者 不如好之者 好之者 不如樂之者
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子(し)曰(いは)く、之(これ)を知(し)る者(もの)は、之を好(この)む者に如(し)かず。之を好む者は、之を楽(たの)しむ者に如かず。
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☆ 意訳 (心理屋の勝手解釈)
先生が言われました。
知るということは、とても大事なことです。知るためには、学ばなければなりません。何時も言っているように、「学びて習う」学んだことを直ぐに実践して、身体(からだ)で覚え知るようにする。これが学問をする、ということです。
知ることが学問の始まりになるのですが、今日はちょっと、その「知る」ということを叮嚀(ていねい)にみてみましょうか。
真面目に一生懸命努力する、ということはとても大切な善いことですが、学ぶこと、知ることが、苦行であっては駄目です。労多くして功少なし。折角(せっかく)の努力が空回りして、中々知として身には付きません。勿論それでもしないよりは遙かに善いのですが。それよりは、冷静に学ぶ方が成果は上がるでしょう。しかし、冷静に学ぶということは、正(まさ)に知的に学ぶ、ということにしかなりません。それでは頭が働くだけで、身体と身体に伴う感情がついていかず、理解が浅いものになってしまいます。
学ぶ、知る、という行為は、心がその対象に向いて、身体ごとに感心を向けることができたならば、理解の深さは全く違ってくるのです。これが学問を好む、愛する、という姿勢ですね。好きだから好奇心が湧いてきて、自然と積極的に求めていってしまうのです。とても素晴らしいことですね。でも、それでは未だ未だ真髄にまでは達することができません。
真髄を理解するようになるためには、対象が対象ではなくなる必要があります。自分とは違う対象を愛するのではなく、対象と一体になって、その感触を喜び楽しむことができるようになれば善いのです。勉強をすることは、好奇心が満たされるだけではなく、自分の心の躍動(やくどう)がどんどん昂(たかま)ってきて、喜びや楽しさが内側から満ち溢れてくるようになるのです。
知るとは何か、ということを改めて整理しますと、こう言えるでしょう。
たゞ知るよりは好きになることが望ましい。好きになるよりは、意図無く素直に楽しめることが最高なのです。
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☆ 補足の独言
当たり前のことのようですが、「之を好む者は、之を楽しむ者に如かず。」という言葉は、余りにも深い言葉ではないのか、と思います。私の妄想では、これは孔子最晩年の、顔回の境地にまで達して、荘子に繋がっていくような心境の変化を吐露(とろ)した言葉なのではないか、と思うのです。それで、このように超深読み解釈をしてみました。