6 雍也第六 19

Last-modified: Sun, 12 Mar 2023 01:30:55 JST (418d)
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☆ 雍也第六 十九章

 

 子曰 中人以上 可以語上也 中人以下 不可以語上也

 

 子(し)曰(いは)く、中人(ちゅうじん)以上(いじゃう)は、以(もっ)て上(じゃう)を語(かた)る可(べ)し。中人以下(いか)は、以て上を語る可からず。

 

☆ 意訳 (心理屋の勝手解釈)

 或る時私は先生に訊(き)いてみました。

 先生が「普通以上の能力の人には高度で深遠な哲理を語っても善いが、普通以下の人にはそのようなことは語る可きではない」と言われた、と聞いたのですが、それは如何(どう)いう意味なのでしょうか。

 先生は言われました。

 はてさて・・・私はそんなことは思ったこともないので、言う筈(はず)がないのですがねえ。大体その言い種(ぐさ)だと、普通の人は普通以上に入るから言って善いのか、普通以下にも入るから言ってはいけないのか。訳が解りませんね。

 人は一人々々皆(みんな)違います。それなのに、それを上中下の能力別に纏(まと)めて分けて一括して判定を下す、という遣(や)り方ですね。これは、効率を第一優先にした大量生産(マスプロ)の発想です。効率は損得勘定のものです。その世界では「時は金なり」(Benjamin Franklin:Time is money)と言われます。一秒たりとも時間を無駄にするな。合理的に考えて無駄を省け。小さな差異は許容範囲で、同じような数値は一括して処理すれば片付く、等々(などなど)。

 確かに一括教育は実に便利の良いものなので、孰(いづ)れは世の中、教育に限らず総てがそうなっていってしまうでしょう。人間は数値で測られ分類されて、価値が確定され、人格までもが検査の数値で決定されるようになるに違いありません。恐ろしいことです。しかしそれは決して本当の教育ではありませんよ。質の悪い擬(まが)い物の教育、手抜きの教育です。真の教育は、その人自身を看(み)ます。看るというのは、観察評価することではありません。彼と一体になって、温かく看守るのです。そして、今の彼の成長に最も適切な助言を与える、これこそが教育なのです。

 私には、秘伝とか奥義(おうぎ)といった秘密のもの隠しているものは何もありません。私は誰に対しても、訊かれたことには総て応えるようにしています。それはその人の今にとって必要なことでなければ意味がありません。意味の無いことは言いませんが、訊いてきた人の能力を判断して教えたり教えなかったりなど、したことがありません。若し入門した許(ばか)りの若者が「仁とは何ですか」と訊いてきたならば、彼が確(しっか)りと理解できて、そしてその先に進めるように、彼の身になって叮嚀に教えます。

 こんなことを言っている人というのは恐らく、同じ質問をしても私が答えることがその度(たび)に違うから、それでこんな誤解が生じてきたのでしょうかねえ。ちょっぴり寂しいことですね・・・

 

☆ 補足の独言

 『論語』は、弟子や孫弟子達の記憶に残っている、大先生孔子の言行録、という体裁のもののようです。それ故に彼等の理解の深さや思い込みの在り方に因って様々な誤解が起こり得る、と言えるでしょう。この章もその例の一つではないか、と思い、このように訳してみました。

 『孔子の言いそうにない、論語の中の孔子の言葉』という本を誰か出さないかな、なんて妄想も面白いかも。