1 学而第一 3 の変更点

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&size(32){''☆ 学而第一 三章''};
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 ''子曰 巧言令色 鮮矣仁''
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 子曰く。巧言令色(かうげんれいしょく)、鮮(すく)なし仁(じん)。
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''☆意訳''
''☆ 意訳 (心理屋の勝手解釈)''

 先生が言われました。

 聞く者を信ぜしめるような、巧みな耳触(みみざわ)りの良い、美しくも甘い語り口、如何(いか)にも善き人といった体(てい)の容姿容貌(ようぼう)。このような如何にも仁があるかの如くに見えるところには、却(かえ)って中々に真心(まごころ)や真情(しんじょう)、本当の思いやりや愛、といったものは無いものですよ。
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''☆心理屋の勝手解釈''
''☆ 補足の独言''

 この言葉は「剛毅木訥(ごうきぼくとつ)、仁近し」(子路第十三ノ二十七章)と一体となって覚えられ語られることが多いようです。対照的な二視点から見ることによって、仁の姿がより鮮明になるように思えます。確かにそうは言えると思いますが、能く能く考えてみると、この二つの言葉はどちらも仁の本質を述べたものではありません。

 巧言でないこと、令色でないこと、剛であること、毅であること、木であること、訥であること、総て皆、仁を実践する上で大切なことです。でもそれらは皆表面的なことであって、仁の本質ではありません。だから「違う」とも「そうだ」とも言わず、「鮮(少なし)」とか「近し」と言っているのです。

 例えば子貢などは、巧言令色の最たる者でしょう。それでしょっちゅう孔子から叱られていたようですが、仁に近いことは顔回に次ぐ、といえる程度の高さであったと思われます。子貢に関して言うならば、「巧言令色なれど仁近し」となるでしょう。

 孔子は何時でも一般論は言っていません。誰かに対して、その人に今必要なことだけを伝えています。「巧言令色」も「剛毅木訥」も、仁の内容に関しては何も触れていません。仁を実践する上で、「それでは難しいぞ」「それは大変善いことだ」と助言しているだけなのです。

 ブラックホールを直接観測することはできませんが、周辺の電磁波の状態などを観測することによって、ブラックホールの実体が推測できるそうです。それと同じように、仁の実践のための条件を示すこの二つの文章から、「仁とは何か」と推測するということは、とても有意義な作業であると思います。
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