3 八佾第三 2 の変更点

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''&size(36){☆ 八佾第三 二章};''
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'' 三家者以雍徹 子曰 相維辟公 天子穆穆 奚取於三家之堂''
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 三家者(さんかしゃ)、雍(よう)を以(もっ)て徹(てっ)す。子(し)曰(いは)く、相(たす)くるに維(こ)れ辟公(へきこう)あり、天子(てんし)穆穆(ぼくぼく)たりと。奚(なん)ぞ三家の堂(どう)に取(と)らん。
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''☆ 意訳 (心理屋の勝手解釈)''&br; 三桓と呼ばれる孟孫(もうそん)、叔孫(しゅくそん)、季孫(きそん)の三つの家の者が、自分の家の廟堂&size(24){(びょうどう)};&size(24){で先祖の廟を祭ったが、その収};(おさ)&size(24){めの儀式に、天子と魯公にのみ許されている雍(よう)を歌いました。};

 そのことに対して、先生が言われました。

 雍(雝(よう))は詩経の中の周頌(しゅうしょう)に収められている歌で、その第三句と四句にこう歌われている。「相(たす)くるに維(こ)れ辟公(へきこう)あり、天子(てんし)穆穆(ぼくぼく)たり」とな。この歌は天子の行う儀式において歌われるものであって、歌の意味は、各国の王さんが奉仕して手助けをし、天子はそれを温かな眼差しで、和(なご)やかに威厳を持ってゆったりと看守っていて下さる、ということだ。

 一介(いっかい)の家老の身分で我が祖霊を祭るのに、何処(どこ)の国の王さんが召使いになってくれるというのか。自分が天子気取りになっているということは、世の中の秩序を乱して、戦乱の世界を導きかねない恐ろしいことだ。何としたものか、何としたものか。
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''☆ 補足の独言''

 前章と全く同じ事件ですね。

 正義感に燃えた若かりし頃の情熱が、怒りとなって迸(ほとばし)り出ているようです。この情熱で以て孔子は自分の人生を全うできたのだと思います。彼には困難な道以外の選択肢は元から存在してなかったのでしょう。
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