論語 はじめに のバックアップ(No.2)


 

☆ 心 理 屋 の論 語   は じ め に

 

 易(えき)の陰陽(いんよう)思想によると、宇宙の始まりは太極(たいきょく)だそうです。太極は無(む)です。無は、一切の存在物が無い状態を言います。無は何も存在せず、ただエネルギーだけが無限に充満している状態です。つまり、無はエネルギーなのです。ユングはこれを「充満無」と呼んでいます。これは正(まさ)しく渾沌(こんとん)の状態です。荘子(そうし)によるとこの渾沌こそが世界の中央の帝(てい)だそうです。老子(ろうし)はこの太極であり無であり渾沌であるものを道(みち、タオ)と呼んで、宇宙の始まりであり、総ての存在のよって立つ根源である、と言っています。

 アインシュタインの特殊相対性理論の方程式によりますと、「E=mc2」だそうですが、Eはエネルギー、mは物質の質量です。質量に光速の二乗(じじょう)を掛けたものがエネルギー量と等しい、ということらしいです。無がエネルギーだとすると、無(無い)は質量(在る、実在物)と同じであり、ただ量が桁外(けたはず)れに無の方が大きい、というだけですね。無は「空(くう)」とも言い、存在する物は「色(しき)」とも言います。成る程、特殊相対性理論の方程式とは般若心経の「色即是空(しきそくぜくう)」のことだったのか、と独り言(ご)ちています。

 宇宙の始まりは、何も無い真空のエネルギー場の中に、真空エネルギーの物質変換が起こり、真空の有(も)つ力(エネルギー)によってインフレーションと呼ばれる大膨脹(ぼうちょう)を起こしたのだそうです。超高温超高圧の、物質が物質として形成されることの不可能な世界。それは完璧なる渾沌の世界です。すなわち宇宙の始まりは、宇宙全体が一つのブラックホールだったのですね。宇宙は、誕生から三十八万年で晴れ上がったそうですが、この「晴れ上がり」というのは、膨脹が進んで温度も圧力も下がり、宇宙が一つのブラックホールでは居られなくなった、ということでしょう。ブラックホールの崩壊。ブラックホールに罅(ひび)が入って粉々に壊(こわ)れ、遂に光が脱出成功。素粒子、物質の誕生です。粉々になったブラックホールの破片は、その周辺が物質化し中心はそのまま巨大ブラックホールとして、物質達の重力(引力)の中心となり、銀河や銀河団を形成していったのでしょう。真空エネルギーは、重力の反対の斥力(せきりょく)ですから、入った罅(ひび)をどんどん大きくし、それぞれの塊(かたまり)を引き離していきます。物質は引力で糊(のり)のようにくっついているので、銀河団は石鹸(せっけん)の泡(あわ)のように引き延ばされて今のような宇宙の大構造(泡構造)ができ上がったのではないでしょうか。宇宙が膨脹して真空の斥力が物質の引力を超えると、膨脹に加速がつくのは当然です。

 話が先走ってしまいましたが、太極論から考えると、太極は宇宙誕生の下地である真空、或いは真空の充満したエネルギー場のことをいうのか、それとも宇宙が一つのブラックホールであった宇宙の晴れ上がり迄のことを含めていうのか、難しいところです。私としては晴れ上がりまでと採(と)りたいのですが、それは、真空のエネルギー場もブラックホールの中も、共に完全なる渾沌だからです。渾沌に秩序(ちつじょ)はありません。この無秩序な、秩序とは無縁な太極が陰陽に分かれたのです。陰陽は無限に分裂誕生していきます。素粒子の誕生、すなわち物質の誕生です。老子はこれを「名(な)」と呼んでいます。物質は目に見えるものです。故に秩序があり、区別して名付けることができます。名の誕生は渾沌の反対の秩序の誕生です。秩序、Kosmos、宇宙。この原初宇宙である「名」は偉大なる陰(いん)であって、老子によると、名というこの玄牝(げんぴん、偉大なる牝(めす))の神なる谷間から森羅万象(しんらばんしょう)、この世(宇宙)の存在総てが生まれ出てくるのです。

 世界は総て陰陽でできています。太極から陰陽が生まれたのですが、太極が陰で陰陽自体が陽です。また、太極という唯一なるものが陽であり、分かれて陰陽という二なるものが陰です。また同時に、無であり渾沌であり認識できない太極が陰であり、存在として認識可能になった名が陽です。素粒子論に因ると、総てのものにそれと正反対の同じものが在るのだそうです。物質に対しては反物質です。物質が陽で反物質が陰。又、存在(物質)が陽、に対しては非存在(真空)が陰。物質の引力が陽、に対して真空の斥力が陰。見えるものが陽、に対して見えないものが陰。こうした正反対のもの達が分かち難く支え合って同等の大切さをもって存在しているのが宇宙です。優秀なものだけに価値があると考えたヒットラーや差別論者達は、悲しいかな、見えないものが理解できないのですね。

 二千五百年前の中国には、孔子と老子という二人の偉大な哲学者が登場しました。私の考えでは、孔子が先に歴史の舞台に登場しています。老子はその後に出た哲学者が、老子の名前を創作して反孔子論を主張したのであろうと思います。何にせよ、この偉大な孔子と老子を陰陽で見るならば、孔子が陽で老子が陰ですね。秩序を以て形成されたこの美しい宇宙。それが人間社会に於いて崩壊してしていっている。この秩序を何とか取り戻さねばと、これを天命と信じて命を賭けて戦った孔子。伊藤仁斎が『論語』を宇宙一の書と言ったその言葉が実に相応しい、孔子の生涯です。孔子の宇宙は、アインシュタインが発見した相対性理論に代表される、質量重力の法則に美事に整理されている美しき宇宙です。

 老子はそれに対して、秩序の乱れは、それ以前の根本の問題じゃろうが、と言う。宇宙の始まりは無であり、それから生じた森羅万象が秩序を有(も)っているのである。「名」(物質の始まり、素粒子)は万物の母であるが、そのもう一つ前の「無」まで帰らんで如何(どう)するか、と言うのです。

 見えるものを整えるのは上っ面の作業である、その奥に在(あ)る見えない本質を確(しっか)りと見なければならぬ。それを行うためには、陰陽の原理を能(よ)く知らねばならぬ。人は光と影があれば、つい光に目が行ってしまう。共に大切なのだから、意識の行かない方に目をやる必要がある。上がりたかったら下がれ。それで陰陽のバランスがとれて巧くいく。それは欲望の執着から離れること、我執(がしゅう)を捨てて無我(むが)になることだ。「無になれ」、「自然に帰れ」と老子は言います。

 この老子の思想は、孔子があってこそ出てきたものです。目に見える世界を極めた孔子。孔子が極めたからこそ、老子はそれを足掛かりにして無為自然(むいしぜん)の道を説けたのです。孔子にそれができたのは、孔子は常に目に見えない本質を大切にしていたからです。その上で現実の今の自分にできることを、天命と受け止めて遣(や)り通したのです。「知らざるを知らずとせよ、これ知るなり」と孔子は言いましたが、自分自身決して理解できないことを勝手に解釈するなんてことはしませんでした。

 孔子は常に天を信じ切っていました。鬼神(きじん)は啓(けい)して遠ざく、すなわち鬼神を肯定して敬った上で、能く解りもしないのにあれこれと妄想して惑わされることが無いように心掛けていた、ということです。死の世界に対しても同様です。

 この孔子の姿勢は、アインシュタインとそっくりです。彼は、宇宙森羅万象である神に対する非常に敬虔(けいけん)な宗教心を有(も)って人を見、世界を見たのです。そして重力宇宙の物理学的解明をやってのけました。アインシュタインの相対性理論が無ければボーア達の量子力学は在り得ません。量子力学を理解するためには、相対性理論を知らなければなりません。老子を本当に理解するためには、論語を通して伝わってくる孔子の心を可能な限り深く感じ取ることが必定(ひつじょう)だと思っています。私は荘子が好きなのですが、孔子を深く愛し、老子を深く愛することができた上でなければ、荘子までは行き着くことはできないな、と感じています。

 荘子のあの含蓄(がんちく)の深い誇大妄想と比較しては叱(しか)られそうですが、心の赴(おもむ)くままに論語を始めるに当たっての思いを、誇大妄想的に書かせていただきました。

 
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 以下本文は、中国哲学には全く素人(しろうと)の私が、心理屋の立場からの感想を妄想的に勝手解釈をして述べたものです。

 「知ったか振りをするな」「知らざるを知らずとせよ」と孔子からも叱られそうですが、平に御容赦のほどを。

 孔子は無口な人だったと思います。若し孔子が六口(むくち)、つまり人の六倍も喋(しゃべ)る囂(かしま)しい人だったら分かり易くて出来の悪い弟子にとっては大変に有り難かっただろうな、と思って、六口な孔子に登場をお願いしました。

 
 
 
 

 ・以上の記述からもおわかりと思いますが、これは飽くまでも私個人の「独断と偏見の書」です。「独断と偏見」というのは、「最悪最低」という悪い意味なのに、「書」という言葉をつけるだけで、何か格好良(かっこい)い言葉という錯覚が起こるのが不思議です。私はその錯覚の幻想に浸(ひた)ってこの「書」を書いていますので、皆さん騙(だま)されないようにお気を付け・・・、いえ、是非騙されてこの妄想の旅を一緒にしてください。

 妄想は悪いばかりではありません。現実世界の汚(よご)れや傷(いた)みは、妄想が綺麗にし、癒(いや)してくれます。

 

 ・「意訳」というのは、私の意(おもい)をしつこく叮嚀に(?)解説をした訳、という意味です。それ故にこれが心理屋である私の「勝手解釈」ということになります。本当のところ、これが書きたくて「心理屋の論語」を始めました。

 

 ・「補足の独言」には、意訳の弁解説明と、意訳で書き切れなかった、もっと言いたい意(おもい)や屁理屈を執諄(しつくど)く述べさせてもらいました。

 
 
 
 
 付録 (これは「論語」とは関係ありません)
 
易と暗黒物質
― 空想非科学的存在論  ―
Non Science Fantasy
 

 易(えき)においては、森羅万象(しんらばんしょう)、この世の存在の総てを、存在とは言えない概念等(など)も含めて総てを、陰陽の視点から捉えます。

 始原、物事の始まり、総ての始まりを太一(太乙、たいいつ)或いは太極(たいきょく)と言い、この太一、太極が陰陽(いんよえ)に分かれることで、総てが始まった、とするようです。

 これを現代の宇宙論と並べてみると中々面白いこじつけ(無関係な故事を無理無体にくっ付けること)ができそうです。

 宇宙物理学では、宇宙はビッグバン(BigBang偉大なる大爆発)から始まった、とする説が一般的なようです。ではそのビッグバンの前はどうなんだ、何処(どこ)で何(なに)から何(なん)でビッグバンは起こったのか、と問われると、何も解らない、ということになるようです。ビッグバンは零(れい・ぜろ)の地点です。零(0)と無限大(∞)には論理は通用しないのだそうです。が、一説に因ると、ビッグバンは何もない「無」から「有(う)」である物質宇宙が誕生したのだ、と言われます。この説はこれから行おうとしている「故事付け」には大変都合が良いので、この説を採用することにします。

 この宇宙論における始まる前の「無」は、易で言う「太一」「太極」に当たります。無は何もないので部分を比較して区別するということができません。全くの渾沌(こんとん、Khaos)です。宇宙、物質や陰陽は、その部分部分に因って、他の部分との違いがあり、区別ができます。そしてそれらの物達は存在法則に則(のっと)って自己主張をし、周囲の他者を受け容れて、秩序をもって共存しています。美しい秩序、それがコスモス(Kosmos)の意味であり、それ故に、最高に美しい秩序をもった世界を、宇宙(Kosmos)というのだそうです。

 ビッグバン理論に因ると、存在が誕生して大爆発的大膨脹をしますが、初めの三十七万年程の間は、物質の構成基本となる電子や原子が未だ形成されず、無のときと全く同じ渾沌の状態だったようです。水素原子やヘリウム原子が形成され、光子が自由に直進できる状態になったときを「宇宙の晴れ上がり」というのだそうですが、易では、陰陽の分裂が始まり、陰が陰の中で陰陽に分かれ、その分かれた陰陽の中でまた陰陽に分かれ、ということが、陰の中でも陽の中でも同じように起こり、物質の基礎元素が構成されて、物としての存在の個性が明確になってきたのか゜三十七万年ということになるのでしょうか。

 こうして存在ができるようになった物質は森羅万象の形態を採って、百三十七八億年宇宙を構成してしていっているのです。これらの物は何一つとして独立して存在できている物はありません。総ての存在が支え合って関わり合って初めて存在できているのです。それだけではありません。一つ一つの存在には必ず正反対の存在があるのだそうです。陽には陰、正(+)には負(-)、物質には反物質があるということです。これらは姿形大きさなどが全く同じ双子(ふたご)の存在で、たゞ性質だけが正反対である、と喩(たと)えられるのだそうです。

 物質の双子の相棒は反物質です。この二つが出会うと+-0(ぷらすまいなすぜろ)となって対消滅(ついしょうめつ)し、E=mc2の公式に則ってエネルギーに変わるのだそうです。物質と反物質は共に物質であり、エネルギーは非物質です。物質の性質は、引き合う力である引力、非物質である真空は押しのけ合う力の斥力(せきりょく)。この二つの均衡状態が宇宙を構成しているということのようです。この均衡は斥力の方が大きく、それ故に宇宙は膨張し続けているのだそうです。

 また、宇宙全体の物質エネルギーを見ると、大半の七割四分が暗黒エネルギーで、二割二分が暗黒物質だそうです。暗黒darkと言うのは、解らない、未知の、という意味ですが、これで見ると、宇宙全体の九割六分が未知のものということになります。私達の知っていて検知できる物質は総て併せて四分(よんぶ)、一割の半分も無いということです。

 暗黒エネルギーの正体は真空エネルギーではないか、という説がありますが、私はその説を信じています。真空エネルギーこそが、正(まさ)しく仏教や老荘の言う「空」や「無」の実態なのです。陰陽で言うと、真空は陰であり物質は陽です。太一(たいいつ)から世界が誕生したということは、太一は宇宙の生みの母、女であり、陰なのです。真空である太一から、宇宙、陰陽の総てが生まれたのです。

 宇宙の構成エネルギーは、斥力の暗黒エネルギーが陰、引力の物質と暗黒物質とが陽、と言えるでしょう。そしてその引力の世界の中で、目に見えたり検知できる物質は陽、目にも見えず検知すらできない謎の暗黒物質が陰と考えることはできないでしょうか。

 物質は同一空間には一つの物しか存在できない、という大原則があります。しかし、暗黒物質は、物質を透過(とうか)します。つまり、物質と暗黒物質とは同じ空間に重なって共存できる、ということです。しかしこの両者は全く無関係に独自で存在しているのではないようです。暗黒物質は、物質である銀河の運動を左右する程の大きな力を持っているそうです。ということは、必ず検知可能な筈で、それ故に天文や物理の学者達が今必死でこの暗黒物質の正体を探っているのですね。幽(かす)かな接点が必ずある筈だ、と。

 以上のようなことから、暗黒物質の特質を考えてみますと、ここには物質と精神の関係と共通するものがあるように思えます。

 唯物論的な一般常識では、現実に存在するのは、科学的に検知可能な物質だけであって、精神は物質である脳の働きによって出てくる現象であって、精神が独自に実在しているのではない、と言われています。

 若し物質だけが実在だとしたら、凡(あら)ゆる物質は例外なくニュートンやアインシュタイン達の発見した物理学の法則に従う筈です。しかし例えば、起(た)つとか跳ぶとかという行動は、万有引力に逆らった意志が齎(もたら)す行動です。この意志の現象は物理学の法則では説明できないのではないでしょうか。生命現象の様々を物理学の法則で説明し切る、ということは不可能なことなのではないのか、と思うのですが、如何(どう)なんでしょうか。

 それで、ふと思った訳です。「精神とか心とか魂とかと呼ばれているものは、暗黒物質なのではないか」と。生命現象というのは、物質と暗黒物質とが幽(かす)かな接点を共有して繋(つな)がったときに生じる現象なのではないのか。肉体と魂とは物質と暗黒物質ですから、重なって存在することができます。意志は物理法則に完全には縛(しば)られていません。意志を働かせることに因って、多少は物理法則に逆らうことができます。しかしそれはエネルギーの要ることなので、疲れてきます。意志の力が弱まってくると、物理法則に素直に従って楽になろうとします。物理法則の一つに「エントロピー増大の法則」というものがありますが、ここでは簡単に「渾沌Khaos回帰の法則」の意味と捉えましょう。「形有(あ)る物は必ず壊(こわ)れる」の法則です。秩序(形)を維持するにはエネルギーが要ります。このエネルギーがなくなれば、後はより渾沌へ渾沌へと時間の矢が一方向に進んでいくだけです。

 生命現象は、この「エントロピー増大の法則」に逆らった現象です。物凄いエネルギーでもってその生命体の求める形を形作っていこうと努力します。時間の矢が渾沌の方向に飛び続けている中で、生命体という秩序Kosmosの完成を目指して、逆方向に飛び続けるのです。これを生長(成長)と言います。赤ちゃんや子供を看(み)ると分かりますが、幼いほどにエネルギーが大きいですね。廾歳(はたち)も過ぎて三十路(みそじ)四十路(よそじ)になってくると、肉体の方は渾沌回帰のベクトル(方向性)が徐々に発現してくるようになります。それでも百歳(もゝとせ)を越しても、生きている限り、死の瞬間まで、細胞の一つ一つが力の限りに生命体、細胞の秩序を維持しようと努力しています。そして死の瞬間から「エントロピー増大の法則」に従って崩れ始めるのだそうです。

 生命体としての肉体は、成長-老化、という山を描(えが)きますが、それは意図的な介入なしには起こり得ません。それを為しているのが暗黒物質であろうと思うのです。

 基本的には、物質と暗黒物質とは、お互い全く無関係に共存しています。ところが四十億年前に偶然起こったのか、物質の組み合わせか組成に、暗黒物質の内の意志という特性を持ったものとの接点を持てるものが現れた。それが元祖DNAの誕生となった、なんて考えると楽しいですね。物質に暗黒物質が接して心身一如(しんしんいちにょ)の繋がりができたときが、その生命体の誕生。物質が古くなったり不都合が起きたりして繋がり悪(にく)くなり、接点が完全に切れてしまった時が死なのでしょう。

 そうか、デカルトは宇宙の構成要素を精神と物質の二実体から成る、と言っていたが、それが正解だったのか、と思い直しております。

 そうすると、精神や心や魂といったものだけではなく、一般に実在が証明されていないとされている、幽霊やお化けや妖怪、といった類(たぐい)のもの、所謂(いわゆる)オカルトとか超常現象、心霊現象、霊感、超能力といった類のもの、実はこれらは総て暗黒物質の働きに因るものだったのだ、と解ると、灰色にくすんだこの世界が、新鮮な薔薇色に輝く世界となって、浮き浮きしてきますね。占いも暗黒物質が関わっているからこそ成り立つものなのです。

 暗黒物質の検知には、世界中の学者さん達が何十年も総力を挙げて頑張っておられますが、未だに巧くいかないようです。物質と暗黒物質との接点はそれ程幽かなものなのですね。このことを能く心得て、見えない世界に目を凝らし耳を澄ませば、何か暗黒物質の方から教えてくれるのです。観世音菩薩(かんぜおんぼさつ)の、「全世界、森羅万象宇宙の総ての音を観、総ての色を聴く」乃ち「眼で聴き、耳で観る」というのがこのことなのでしょう。

 心の構造をユングは意識と無意識に分けて考察しましたが、これを陰陽理論で見ますと、意識が陽、無意識が陰、となるでしょう。目に見え知覚できる世界に関わる意識と、五感では知覚不能である無意識の世界。この知覚不能な無意識の世界は、正に暗黒物質の世界そのままなのかも知れません。

 夢は無意識の世界を意識で捉えたもの、と言われます。夢の感覚を理解することが、暗黒物質の世界を理解する助けになるのかも知れませんね。夢では時間も空間も、意識のもっている常識から見ると、でたらめです。このでたらめこそが、物質とは違う、暗黒物質乃ち心にとっては何が大切か、何処を見ればよいのか、といったようなことを教えてくれているのです。