7 述而第七 36

Last-modified: Fri, 16 Feb 2024 19:31:28 JST (70d)
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☆ 述而第七 三十六章

 

 子曰 君子坦蕩蕩 小人長戚戚

 

 子(し)曰(いは)く、君子(くんし)は坦(たひ)らかに蕩蕩(たうたう)たり。小人(せうじん)は長(とこしな)へに戚戚(せきせき)たり。

 

☆ 意訳 (心理屋の勝手解釈)

 或る弟子がこのようなことを言っていました。先生がこう言われていた、と。

 心の大きな視野の広い人は、その大きく広い御陰で、心が広々と平らかで安定しています。それ故に常に、温泉に浸(つ)かって身体(からだ)が寛(くつろ)いでいるように、心がゆったりと伸び伸びしています。それに対して、心が小さく自己中心的で視野の狭い人は、自分の損得や評価が気になって仕方無いので、何時でも何時迄もびくびくくよくよして心が休まらないでいるのです。

 この弟子の伝えた先生の言葉には、この弟子の思い込みがあって、そのため歪(ひづ)みが生じてしまっているように思われます。

 私の知っている限りでは、先生は、立派な人はこのようである、とは言っても、駄目な奴はこうだ、と決めつけて否定して切り捨てるような言い方は決してされませんでした。私の記憶するところでは、後半の言葉はこうでした。

 坦(かん)蕩蕩(とうとう)とできず、何時迄もびくびくくよくよして心が休まらないでいるのは、自分のことで頭が一杯だからです。思い遣りを持って視野を広げれば、心は安定して、大きく前進できるのですよ。

 ということでした。

 他人(ひと)を非難するのは、自分の自信の無さを自分に隠すためです。劣等感の強いこの弟子には、自分ができていないということを認めることは堪え難くて、自分はできていると思い込み、その上、できない者を先生が否定している、と誤解した挙げ句、傲慢にも威張り返っている、という風が見受けられます。

 

☆ 補足の独言

 「これは孔子の言葉ではない」という違和感に対する対策として、自分が否定する許りでは能がないので、『論語』の編者に御登場願って、代わりにけちを付けて頂きました。そもそも、けちを付けるということ自体が、心の狭いことの証(あかし)となるものですから、深く反省しております。