8 泰伯第八 4

Last-modified: Sun, 07 Apr 2024 17:56:38 JST (22d)
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☆ 泰伯第八 四章

 

 曾子有疾 孟敬子問之 曾子言曰 鳥之將死 其鳴也哀 人之將死 其言也善 君子所貴乎道者三 動容貌 斯遠暴慢矣 正顏色 斯近信矣 出辭氣 斯遠鄙倍矣 籩豆之事 則有司存

 

 曾子(そうし)疾(やまひ)有(あ)り。孟敬子(まうけいし)之(これ)を問(と)ふ。曾子言(い)ひて曰(いは)く、鳥(とり)の将(まさ)に死(し)なんとするときは、其(そ)の鳴(な)くや哀(かな)し。人(ひと)の将に死なんとするときは、其の言ふや善(よ)し。君子(くんし)道(みち)に貴(たっと)ぶ所(ところ)の者(もの)三(みつ)。容貌(ようぼう)を動(うご)かして、斯(ここ)に暴慢(ぼうまん)に遠(とほ)ざかり、顔色(がんしょく)を正(ただ)して、斯に信(しん)に近(ちか)づき、辞気(じき)を出(いだ)して、斯に鄙倍(ひばい)に遠ざかる。籩豆(へんとう)の事(こと)は、則(すなは)ち有司(いうし)存(そん)す。

 

☆ 意訳 (心理屋の勝手解釈)

 孟敬子(もうけいし)からしたら、曽参(そうしん)は、父の孟武伯(もうぶはく)や祖父の孟懿子(もういし)が世話になり深く尊敬していた孔子の弟子です。その曽参が死の病に伏せっている、というので、お見舞いに訪れました。

 曽先生は、国家の大臣様のお見舞いとあって、精一杯の威厳を示してお迎えしました。

 そして曽先生は言いました。

 「鳥の死に瀕(ひん)しての鳴き声は、哀しくも美しく、深く胸に響くものがあり、人の辞世(じせい)の言葉には、世俗の見栄(みえ)を脱ぎ捨てた真実があって、深く胸に響く」と言われます。今将に死なんとしている私の言葉を、どうぞ確りとご記憶して戴きたく存じます。

 このように前置きを言わないと聞き流されてしまう、と心配したのでしょうね。彼はこうして語り始めました。

 上に立つ者の在り方として大事なことが三つあります。その第一は、容姿と立ち振る舞いです。礼に沿って威厳を持って振る舞えば、自分が粗暴にも傲慢(ごうまん)にもならず、相手からもそのような扱(あつか)いをされることもなくなります。次いでは表情です。真面目(まじめ)で誠実な表情ができていたならば、皆の信頼が得られますし、信頼できる友が集まってきます。そしてもう一つは、言葉遣いです。語気が上品になるように気を付けることで、品の良い威厳が醸(かも)し出され、心が卑(いや)しく道理に背(そむ)くような者を遠ざけることができます。祭祀(さいし)の神器(しんき)等の些細(ささい)なことは、担当の役人に任せておけば良いのです。

 孟敬子は帰る途次(みちすがら)首を傾(かし)げていました。

 何か変(おか)しいなあ。孔先生だったら何と言うんだろう。「態度も表情も言葉も、礼という思い遣りの心があってこそのものですよ」とか言われるのかなあ。祭祀の細々(こまごま)としたことも、横柄(おうへい)に踏ん反(ぞ)り返って、係(かかり)の役人に任せていたのではいけないよなあ。そこでも敬愛の心が大切な筈で、決して軽んじて疎(おろそ)かにして良いものではないよなあ・・・

 このような孟敬子でしたから、諡(おくりな)を「敬」と付けられたのです。

 

☆ 補足の独言

 「鳥の将(まさ)に死なんとす、其の鳴くや哀(かな)し。人の将に死なんとす、其の言ふや善(よ)し。」というのは、その当時の民間の諺(ことわざ)らしいです。人は死を感じるとき、必ず何か心が揺れ騒ぐようです。死にたくない、という願いも虚しく死なねばならない。それは「哀しい」というだけでは決して表現し切れない深い感情があるでしょう。「鳥には魂がないから唯哀しいだけでしかなく、魂のある人は素晴らしく善い」という意味ではないでしょう。どちらも共に強く心に訴えかけるものなのだ、という意味にとる可きだ、と思います。しかし、人の「其の言ふや善し」の「善し」は、「正しい」とか「間違っていない」ととっては間違いです。これは「嘘ではない」とか「本心、本音である」という意味に理解する可きです。その本音は、時には真実から程遠い浅はかなものであったり、間違った思い込みであったりすることも、よくあることです。曽参はそこを間違えているのではないか、と思われます。

 それに続く孟敬子へのお説教は、私には「大夫(たいふ)(大臣)らしく威厳を持って巧くやっていくためのはったりの嚼(か)ませ方をお教え致しましょう」という風に聞こえます。それは捻(ひね)くれた穿(うが)った見方で宜(よろ)しくない、とは思いますが、正直なところです。

 そんなこんなで、こんな訳になってしまいました。