7 述而第七 35

Last-modified: Thu, 08 Feb 2024 11:36:24 JST (79d)
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☆ 述而第七 三十五章

 

 子曰 奢則不孫 儉則固 與其不孫也 寧固

 

 子(し)曰(いは)く、奢(おご)るときば則(すなは)ち不孫(ふそん)なり。倹(けん)なるときは則ち固(こ)なり。其(そ)の不孫ならん与(よ)りは、寧(むし)ろ固なれ。

 

☆ 意訳 (心理屋の勝手解釈)

 先生が言われました。

 人間、生活が楽になると気が緩んで、考え方が甘くなってしまいがちになります。そうすると、えゝ加減にしかできていないことも、ばっちりできたと思い込んでしまい、内省がどんどんできなくなっていってしまいます。その結果、自分を立派な人間だと錯覚して、他人(ひと)が愚(おろ)かに見えて、傲慢(ごうまん)不遜(ふそん)になってしまう、というようなことになりかねません。

 逆に、生活が苦しくて衣食住にも事欠くような状態が続くと、世の中や他人に対しても自分に対しても、暗く否定的にしか思えなくなって、いぢけたり頑迷(がんめい)になったり、というようなことになり易(やす)いものです。

 勿論、賜(し)ぃちゃん(子貢)のように、幾ら豊かで贅沢(ぜいたく)な暮らしをしていても、常に謙虚で内省を怠らない人もいれば、回(かい)ちゃん(顔回)のように、困窮の極みのような生活をしながらも、明るく柔軟極まりない素晴らしい人生を送っている人もいます。だから一概には言えませんが、一般にはこうした傾向がある、ということは知っておいて、自省する縁(よすが)にすると良いですね。

 贅沢も貧困も、どちらも柔軟な広い心を育てるためには望ましくないものな訳ですが、中でも不遜になるということが最悪です。人間関係に於いて、相手を敬う心を忘れるくらい傲慢不遜で礼を失したものはありません。頑迷頑固なのも傍(はた)迷惑甚(はなは)だしいものがありますが、傲慢不遜と比べれば可愛(かわい)いものでしょう。

 まあしかし、本当に大切なのは、如何(どん)な環境であれ、「遜(そん)」という敬する心と「不固」という決めつけのない受け容れの広い心なのです。

 

☆ 補足の独言

 この章は一見簡潔で解り易い気がするのですが、私の懐(いだ)いている孔子像とはずれが生じます。『論語、八佾(はちいつ)第三、四章』に、「礼は其の奢(おご)らんよりは寧ろ倹(つゝし)め。」とあります。これは礼の心の在り方を説いたものだと思われますが、そこでは、「奢(おご)るよりは倹(つゝまし)くある方がよい」と説いています。これは、「奢(しゃ)ではいけない、倹(けん)の精神でなければならない」という意味でしょう。ところがこの章では、奢も倹もどちらもいけないが、二つを比べるならば倹の方が良い(増しだ)、となっています。礼の心の在り方を、物質的な贅沢貧乏に置き換えて、そこに中庸(ちゅうよう)の徳をくっつけた創作のように思えるのですが・・・