8 泰伯第八 1

Last-modified: Thu, 07 Mar 2024 23:29:03 JST (50d)
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☆ 泰伯第八 一章

 

 子曰 泰伯其可謂至德也已矣 三以天下讓 民無得而稱焉

 

 子(し)曰(いは)く、泰伯(たいはく)は其(そ)れ至徳(しとく)と謂(い)ふ可(べ)きのみ。三(み)たび天下(てんか)を以(もっ)て譲(ゆづ)る。民(たみ)得(え)て称(しょう)する無(な)し。

 

☆ 意訳 (心理屋の勝手解釈)

 先生は、周王朝の創始者武王(ぶおう)姫発(きはつ)の弟周公旦(しゅうこうたん)を誰よりも強く心から敬愛していました。この二人、武王と周公旦の父親が、聖人として名高い文王(ぶんのう)姫昌(きしょう)です。文王の御祖父(おじい)さんは、古公亶父(ここうたんぽ)と言って、これまたとても立派な人でした。(武王と周公旦にとっては曾祖父(ひいじいちゃん)になります。)この古公亶父には、泰伯(たいはく)、仲雍(ちゅうよう)、季歴(きれき)という三人の子がありました。三人共に並外れた器量の大きさで、誰が王さんになっても問題はない、という状況で、当然長兄の泰伯が王位を継ぐ筈でした。ところが末っ子の季歴に子供が生まれ、この子が天下を取る、という奇瑞(きずい)があったのです。この子が後の西伯公(せいはくこう)文王姫昌です。古公亶父は、この子に王位を継がせて、悪逆非道な殷を滅ぼしたい、と思いました。長兄の泰伯も同じ思いでした。それで泰伯は、「そのためには自分ではなくこの子の父である末っ子の季歴が王位を継承することが一番巧くいく」と考えたのです。そして次男の仲雍と相談して二人で国を逃れ、南の蛮族の地に身を隠したのです。そしてその南蛮の地の呉の国の開祖となりました。

 この出来事から何十年か経って、父の季歴から王位を継いだ姫昌は、祖父古公亶父の願いを叶える可く、偉大な軍師を探し求めていました。そして出会ったのが、姜子牙(きょうしが)呂尚(りょしょう)です。古公亶父は、偉大な殿様という意味で「大公」と呼ばれていました。この大公が殷を倒すために必要な人材として求めていた人、大公の望んでいた人、という意味で呂尚は「太公望(たいこうぼう)」と呼ばれるようになりました。この太公望を得て文王姫昌は、殷打倒計画を着々と推し進めていきますが、文王は預言と違って志半ばで病に倒れてしまいました。それで、長男の伯邑考(はくゆうこう)は既に殷の紂王(ちゅうおう)に惨殺されていたので、次男姫発(きはつ)が父の衣鉢(いはつ)を継いで、太公望呂尚や四男周公旦に助けられて、殷打倒の予言を成就(じょうじゅ)し、周王朝を建国して武王となるのです。この一連の出来事は、泰伯の先見の明があってこそ成り立ったものなのです。しかも泰伯は、そのことを誰にも気付かれないように密(ひそ)かにやってのけました。そのため、そのことを知って賞賛する者は誰もありませんでした。

 或る時、先生が言われました。

 泰伯こそが真(まこと)に最高の人格者と言えるでしょう。自分が王位を継承して天下を取ることができた筈なのに、甥の昌(文王)が生まれて、この子は天下を取るのに自分よりももっと相応(ふさわ)しいと判断すると、絶対的な決意を持って、王位を昌に継がせる可く、有無(うむ)を言わせないように見事に身を引いて、弟の季歴(きれき)に王位継承権を譲ったのです。そのことが皆に知れて褒め讃えられるようでしたら、普通の立派な行い、と言えるのでしょうが、泰伯は、誰知ることのないようにそれを行い、それが為にこの偉大な行為を誰からも褒め讃えられることのないようにやってのけました。これこそが、真(しん)の人格者たる所以(ゆえん)なのです。

 

☆ 補足の独言

 「三譲(さんじょう)」というのは「三度譲(ゆず)る」と解釈すると、事実と合わなくなってしまいます。これは「決意を持って譲る」という意味に理解する可きではないでしょうか。

 「一譲」は社交的な礼儀としての譲り。「二譲」は嘘でない本気の譲り。「三譲」は絶対の決意を持った不動の覚悟の譲り、と理解して良いのではないでしょうか。

 この章や『論語』とは全く関係ありませんが、この「一」「二」「三」の意味は、「死にたい」ということにも当て嵌(は)まるかも知れません。

 死にたいと思ったり言ったりする、というのは「一」です。これは本当に死にたいのではありません。現実の余りの辛さに耐え難(がた)くて、この苦しみから解放されたい、逃れて楽になりたい、という願いの表明なのです。詰(つ)まり、「死にたい」というのは、「死にたくない、生きたい。だから助けてくれ」という意味なのです。

 実際に自殺を図(はか)る、というのは「二」に相当するでしょう。これも本当に死にたいと願っている訳ではありません。現実の苦しみから逃れる手立(てだて)も尽きてしまい、誰かに助けてもらうことも叶わず、絶望するしかなくなっているので。それでも最後の最後まで助けてもらえる希望は持ち続けています。自殺は絶望からの救いを求める悲痛な叫(さけ)び声、呼(よ)びかけなのです。

 「三」は覚悟の自殺です。巧く死ねるように準備周到に、秘密裡(うち)に遂行(すいこう)されます。大抵止(と)める手立はありません。そしてそれが善かったのか悪かったのか、生きている人間には判断のしようのないことです。冥福を祈るのみです。

 しかし「一」「二」の自殺は、可能な限り防ぎたいものです。本当は生きたいのに苦し過ぎて絶望にまで追い込まれてしまっている。その心の痛み苦しみを確りと分かち持たせてもらって、それで死なずに済むことができたなら、と願う許りです。本当は生きたいのですから。

 

☆ 補足の独言の補足

 この章は、後に挿入された偽作である、というのが定説のようです。恐らく孔子は周公旦を敬愛していたのであって、泰伯に対してこのような思いは別に懐(いだ)いてていた訳ではないのではないか、と思います。しかしこの孔子の言葉を事実として受け取っても、孔子らしさは損なわれないかな、と思います。

 

☆ 補足の独言の補足のそのまた補足

 最近解けた謎を一つ。解けたのか如何(どう)か解りませんが。

 「周公旦」という呼び名は、兄の武王が亡くなった後(あと)、息子が幼(おさな)かったので、旦が代わりに王さんをしていたのではないか。そしてその甥が成人してから王位を返上して、三代目ではなく「二代目成王(せいおう)」として立てた、という説があるそうです。それで、周の公、乃ち王さんであった旦、周公旦と呼ばれたのかも知れません。王さんをしていたのに、自分が二代目とは名乗らずに自分の存在を消して、甥を二代目として兄の後を継がせた、ということのようです。大伯父(おゝおじ)さんの泰伯と同じ偉大な行為である、と言えるのではないでしょうか。