8 泰伯第八 2

Last-modified: Fri, 15 Mar 2024 18:55:06 JST (42d)
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☆ 泰伯第八 二章

 

 子曰 恭而無禮則勞 愼而無禮則葸 勇而無禮則亂 直而無禮則絞

 君子篤於親 則民興於仁 故舊不遺 則民不偸

 

 子(し)曰(いは)く、恭(きょう)にして礼(れい)無(な)ければ則(すなは)ち労(らう)す。慎(しん)にして礼無ければ則ち葸(し)す。勇(ゆう)にして礼無ければ則ち乱(らん)す。直(ちょく)にして礼無ければ則ち絞(かう)す。

 君子(くんし)親(しん)に篤(あつ)ければ、則ち民(たみ)は仁(じん)に興(おこ)る。故旧(こきう)遺(わす)れざれば、則ち民は偸(うす)からず。

 

☆意訳 (心理屋の勝手解釈)

 或る弟子が、先生がこう言われていた、と言っていました。

 敬虔(けいけん)で恭(うやうや)しいのは良いことですが、それが礼に叶っていなければ、徒労に終わってしまいます。

 慎(つつし)み深く慎重なのは良いことですが、それが礼に叶っていなければ、唯(たゞ)の臆病(おくくびょう)になってしまいます。

 勇気があり果敢(かかん)なことは良いことですが、それが礼に叶っていなければ、乱暴狼藉(ろうぜき)で周囲を混乱に陥(おとしい)れることになってしまいます。

 素直で嘘がないのは良いことですが、それが礼に叶っていなければ、相手の非(ひ)を非難攻撃して、彼の心を傷付けることになってしまいます。

 それを聞いた先生が言われました。

 果(は)て扨(さて)、私がそんなことを言いましたか。そのように言われると一寸(ちょっと)誤解が生じそうで心配ですね。

 何時も言っているように、礼は形式や形ではありません。相手を敬い思い遣る心から出てくる、相手を思う行為なのです。

 恭(うやうや)しさは思い遣りの心が籠(こ)もっていなければ、その無理をした恭しさの不自然な慇懃(いんぎん)さが、場を気不味(きまづ)いものにしてしまい、双方共に気疲れしてしまうでしょう。これでは相手を思い遣るどころか、不愉快にさせるだけになりますね。それが為にこちらは、皆から嫌われ疎(うと)んじられ勿体(もったい)を付けて敬遠される、ということになるのが落ちなのです。

 慎み深さというのは、相手の気持ちを推(お)し量(はか)って、自分がしゃしゃり出ることで相手が不愉快な思いをすることがないように、という配慮から、我が身を慎むのです。嫌だからとか恥ずかしいからといって引っ込んでいるのは、我が身を守る自己中であって、いぢけや臆病と同じことです。礼とは正反対のものですね。

 勇気は、社会やそこで暮らす皆のために発揮するものです。思い遣りのない勇気は自分の勝手な思いや欲望を満たすための暴力でしかありません。思い遣りからの勇気は、時には捨て身の自己犠牲の覚悟が必要なこともあります。だからこそ勇気なのであって、暴力沙汰で皆に迷惑をかけるのが勇気ではありません。

 正直なことはとても大切な善いことですが、これも唯正直であれば良いというものではないですね。正直な言動の中にも、思い遣りの心が不可欠です。本当のことというのは、言っても受け容れられることと、受け容れられないことがあります。受け容れられないことは、待ってあげることが望ましいこともよくあるのです。また正直な人は、自分が正しい、と無反省に思い込んでいる、ということもよく見受けられます。誤解したまゝを正直に言えば、冤罪(えんざい)で相手を陥(おとしい)れることにもなりかねません。それから、良いこと悪いことには灰色の領域もありますし、小さな悪いことには、所謂(いわゆる)「片目を瞑(つぶ)って」ということが必要なこともあります。そのような様々を判断するのが思い遣りの心です。これが礼なのです。

 礼の形式に叶っているか否かではありませんよ。相手を思い遣っての行動であるか否かなのです。

 また先生は、誰かがこんなことを言っているのを耳にしました。

 上に立つ者が親兄弟や親族を大事にすれば、民衆は思い遣りが深くなります。そして昔の知り合いを忘れないで大事にしていれば、民衆は情(じょう)が深くなります、と。

 先生は、これには吃驚(びっくり)して言われました。

 何ともはや、誰が言ったことなのか。困ったことですねえ。私がそんなことを思う訳も言う訳も決してないでしょう。依怙贔屓(えこひいき)はいけません。そんなことをしていたならば、民衆は皆(みんな)そっぽを向いて離れて行ってしまいます。大切なのは、今目の前にいて関わっている人に対して、差別なく思い遣りの気持ちでもって誠実に対応することです。旧知の人であろうと初対面の人であろうと関係ありません。勿論身分や出自(しゅつじ)も経済状態も住んでいる所も皆無関係です。如何(どん)な人に対しても敬意をもって心から対応していれば、民衆は皆思い遣りも情も深くなるのです。これが礼なのです。

 

☆ 補足の独言

 この章は、宰我(さいが)への非難(公冶長第五、十章)と同程度に質の悪い捏(でっ)ち上げと思います。