0 論語/はじめに

Last-modified: Wed, 14 Jun 2023 19:47:06 JST (319d)
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☆ 心 理 屋 の論 語   は じ め に
 易(えき)の陰陽(いんよう)思想によると、宇宙の始まりは太極(たいきょく)だそうです。太極は無(む)です。無は、一切の存在物が無い状態を言います。無は何も存在せず、ただエネルギーだけが無限に充満している状態です。つまり、無はエネルギーなのです。ユングはこれを「充満無」と呼んでいます。これは正(まさ)しく渾沌(こんとん)の状態です。荘子(そうし)によるとこの渾沌こそが世界の中央の帝(てい)だそうです。老子(ろうし)はこの太極であり無であり渾沌であるものを道(みち、タオ)と呼んで、宇宙の始まりであり、総ての存在のよって立つ根源である、と言っています。
 アインシュタインの特殊相対性理論の方程式によりますと、「E=mc2」だそうですが、Eはエネルギー、mは物質の質量です。質量に光速の二乗(じじょう)を掛けたものがエネルギー量と等しい、ということらしいです。無がエネルギーだとすると、無(無い)は質量(在る、実在物)と同じであり、ただ量が桁外(けたはず)れに無の方が大きい、というだけですね。無は「空(くう)」とも言い、存在する物は「色(しき)」とも言います。成る程、特殊相対性理論の方程式とは般若心経の「色即是空(しきそくぜくう)」のことだったのか、と独り言(ご)ちています。
 宇宙の始まりは、何も無い真空のエネルギー場の中に、真空エネルギーの物質変換が起こり、真空の有(も)つ力(エネルギー)によってインフレーションと呼ばれる大膨脹(ぼうちょう)を起こしたのだそうです。超高温超高圧の、物質が物質として形成されることの不可能な世界。それは完璧なる渾沌の世界です。すなわち宇宙の始まりは、宇宙全体が一つのブラックホールだったのですね。宇宙は、誕生から三十八万年で晴れ上がったそうですが、この「晴れ上がり」というのは、膨脹が進んで温度も圧力も下がり、宇宙が一つのブラックホールでは居られなくなった、ということでしょう。ブラックホールの崩壊。ブラックホールに罅(ひび)が入って粉々に壊(こわ)れ、遂に光が脱出成功。素粒子、物質の誕生です。粉々になったブラックホールの破片は、その周辺が物質化し中心はそのまま巨大ブラックホールとして、物質達の重力(引力)の中心となり、銀河や銀河団を形成していったのでしょう。真空エネルギーは、重力の反対の斥力(せきりょく)ですから、入った罅(ひび)をどんどん大きくし、それぞれの塊(かたまり)を引き離していきます。物質は引力で糊(のり)のようにくっついているので、銀河団は石鹸(せっけん)の泡(あわ)のように引き延ばされて今のような宇宙の大構造(泡構造)ができ上がったのではないでしょうか。宇宙が膨脹して真空の斥力が物質の引力を超えると、膨脹に加速がつくのは当然です。
 話が先走ってしまいましたが、太極論から考えると、太極は宇宙誕生の下地である真空、或いは真空の充満したエネルギー場のことをいうのか、それとも宇宙が一つのブラックホールであった宇宙の晴れ上がり迄のことを含めていうのか、難しいところです。私としては晴れ上がりまでと採(と)りたいのですが、それは、真空のエネルギー場もブラックホールの中も、共に完全なる渾沌だからです。渾沌に秩序(ちつじょ)はありません。この無秩序な、秩序とは無縁な太極が陰陽に分かれたのです。陰陽は無限に分裂誕生していきます。素粒子の誕生、すなわち物質の誕生です。老子はこれを「名(な)」と呼んでいます。物質は目に見えるものです。故に秩序があり、区別して名付けることができます。名の誕生は渾沌の反対の秩序の誕生です。秩序、Kosmos、宇宙。この原初宇宙である「名」は偉大なる陰(いん)であって、老子によると、名というこの玄牝(げんぴん、偉大なる牝(めす))の神なる谷間から森羅万象(しんらばんしょう)、この世(宇宙)の存在総てが生まれ出てくるのです。
 世界は総て陰陽でできています。太極から陰陽が生まれたのですが、太極が陰で陰陽自体が陽です。また、太極という唯一なるものが陽であり、分かれて陰陽という二なるものが陰です。また同時に、無であり渾沌であり認識できない太極が陰であり、存在として認識可能になった名が陽です。素粒子論に因ると、総てのものにそれと正反対の同じものが在るのだそうです。物質に対しては反物質です。物質が陽で反物質が陰。又、存在(物質)が陽、に対しては非存在(真空)が陰。物質の引力が陽、に対して真空の斥力が陰。見えるものが陽、に対して見えないものが陰。こうした正反対のもの達が分かち難く支え合って同等の大切さをもって存在しているのが宇宙です。優秀なものだけに価値があると考えたヒットラーや差別論者達は、悲しいかな、見えないものが理解できないのですね。
 二千五百年前の中国には、孔子と老子という二人の偉大な哲学者が登場しました。私の考えでは、孔子が先に歴史の舞台に登場しています。老子はその後に出た哲学者が、老子の名前を創作して反孔子論を主張したのであろうと思います。何にせよ、この偉大な孔子と老子を陰陽で見るならば、孔子が陽で老子が陰ですね。秩序を以て形成されたこの美しい宇宙。それが人間社会に於いて崩壊してしていっている。この秩序を何とか取り戻さねばと、これを天命と信じて命を賭けて戦った孔子。伊藤仁斎が『論語』を宇宙一の書と言ったその言葉が実に相応しい、孔子の生涯です。孔子の宇宙は、アインシュタインが発見した相対性理論に代表される、質量重力の法則に美事に整理されている美しき宇宙です。
 老子はそれに対して、秩序の乱れは、それ以前の根本の問題じゃろうが、と言う。宇宙の始まりは無であり、それから生じた森羅万象が秩序を有(も)っているのである。「名」(物質の始まり、素粒子)は万物の母であるが、そのもう一つ前の「無」まで帰らんで如何(どう)するか、と言うのです。
 見えるものを整えるのは上っ面の作業である、その奥に在(あ)る見えない本質を確(しっか)りと見なければならぬ。それを行うためには、陰陽の原理を能(よ)く知らねばならぬ。人は光と影があれば、つい光に目が行ってしまう。共に大切なのだから、意識の行かない方に目をやる必要がある。上がりたかったら下がれ。それで陰陽のバランスがとれて巧くいく。それは欲望の執着から離れること、我執(がしゅう)を捨てて無我(むが)になることだ。「無になれ」、「自然に帰れ」と老子は言います。
 この老子の思想は、孔子があってこそ出てきたものです。目に見える世界を極めた孔子。孔子が極めたからこそ、老子はそれを足掛かりにして無為自然(むいしぜん)の道を説けたのです。孔子にそれができたのは、孔子は常に目に見えない本質を大切にしていたからです。その上で現実の今の自分にできることを、天命と受け止めて遣(や)り通したのです。「知らざるを知らずとせよ、これ知るなり」と孔子は言いましたが、自分自身決して理解できないことを勝手に解釈するなんてことはしませんでした。
 孔子は常に天を信じ切っていました。鬼神(きじん)は啓(けい)して遠ざく、すなわち鬼神を肯定して敬った上で、能く解りもしないのにあれこれと妄想して惑わされることが無いように心掛けていた、ということです。死の世界に対しても同様です。
 この孔子の姿勢は、アインシュタインとそっくりです。彼は、宇宙森羅万象である神に対する非常に敬虔(けいけん)な宗教心を有(も)って人を見、世界を見たのです。そして重力宇宙の物理学的解明をやってのけました。アインシュタインの相対性理論が無ければボーア達の量子力学は在り得ません。量子力学を理解するためには、相対性理論を知らなければなりません。老子を本当に理解するためには、論語を通して伝わってくる孔子の心を可能な限り深く感じ取ることが必定(ひつじょう)だと思っています。私は荘子が好きなのですが、孔子を深く愛し、老子を深く愛することができた上でなければ、荘子までは行き着くことはできないな、と感じています。
 荘子のあの含蓄(がんちく)の深い誇大妄想と比較しては叱(しか)られそうですが、心の赴(おもむ)くままに論語を始めるに当たっての思いを、誇大妄想的に書かせていただきました。

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 以下本文は、中国哲学には全く素人(しろうと)の私が、心理屋の立場からの感想を妄想的に勝手解釈をして述べたものです。
 「知ったか振りをするな」「知らざるを知らずとせよ」と孔子からも叱られそうですが、平に御容赦のほどを。
 孔子は無口な人だったと思います。若し孔子が六口(むくち)、つまり人の六倍も喋(しゃべ)る囂(かしま)しい人だったら分かり易くて出来の悪い弟子にとっては大変に有り難かっただろうな、と思って、六口な孔子に登場をお願いしました。


 妄想は悪いばかりではありません。現実世界の汚(よご)れや傷(いた)みは、妄想が綺麗にし、癒(いや)してくれます。

 ・「意訳」というのは、私の意(おもい)をしつこく叮嚀に(?)解説をした訳、という意味です。それ故にこれが心理屋である私の「勝手解釈」ということになります。本当のところ、これが書きたくて「心理屋の論語」を始めました。

 ・「補足の独言」には、意訳の弁解説明と、意訳で書き切れなかった、もっと言いたい意(おもい)や屁理屈を執諄(しつくど)く述べさせてもらいました。