7 述而第七 34

Last-modified: Sat, 03 Feb 2024 11:43:25 JST (84d)
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☆ 述而第七 三十四章

 

 子疾病 子路請禱 子曰 有諸 子路對曰 有之 誄曰 禱爾于上下神祇 子曰 丘之禱久矣

 

 子(し)の疾(やまひ)病(へい)す。子路(しろ)、請禱(せいたう)す。子曰(いは)く、諸(これ)有(あ)りや。子路対(こた)へて曰く、之(これ)有り。誄(るゐ)に曰く、爾(なんぢ)を上下(しゃうか)の神祇(しんぎ)に禱(いの)ると。子曰く、丘(きう)の禱ること久(ひさ)し。

 

☆ 意訳 (心理屋の勝手解釈)

 或る時、先生が病気で寝込み、様態が大変悪くなったことがありました。子路は狼狽(うろた)えて、何とか先生の病気を治そうと必死になり、八百万(やおよろず)の神に先生の病気を治してもらえるように請い願い、一心にお祈りを捧(さゝ)げました。

 その祈りが天に通じたのか如何(どう)かは分かりませんが、先生は無事危機を脱して元気になられました。

 後(あと)から、子路が必死で神に祈っていたと聞いた先生は、彼に尋(き)きました。

 そのような祈りがあるのですか。

 自分の祈りが神に届いて先生が元気になった、と信じている子路は、元気百倍になっていますから、明るく自信を持って答えました。

 はい、御座いますとも。誄(るい)という典礼文に「汝を天つ神(あまつかみ、天界の神)国つ神(くにつかみ、地上の祖霊などの祇(かみ、ぎ))に祈る」と御座います。

 それを聞いて先生は言われました。

 成程(なるほど)ねえ。しかし由(ゆう)ちゃん(子路)、言っちゃあ悪いけれど、その誄(るい)の祈りなら、私は随分前からずーっと行っていますよ。今更することではないでしょう。それに、貴方は大きな勘違いをしているようですね。上下(しょうか)の神祇(しんぎ)(じょうげのじんぎ、八百万の神々)に祈るのは、個人的な願望を聞き届けてもらうためではありません。国の平安と諸民(もろたみ)の幸せを願い、それをしてくれている天や神に感謝の意を示すための祈りなのです。由ちゃんが祈ったから私の病気が治った、などと勘違いしないように。唯、「今死なんで宜(よろ)しい」との天の裁定には感謝の祈りを忘れないでおきましょう。

 懇々(こんこん)とお説教をされた子路でしたが、先生が元気になったことだけで存分に満足している彼には、そのお説教が全く入った風もなく、笑顔で素直に聞き流しながら、精一杯神妙な振りをして「はい、はい」と言っていました。先生もお説教とは裏腹に、何だかとても幸せそうでした。

 

☆ 補足の独言

 この章は、病気を治すのに祈祷(きとう)に頼ってはいけない、ということを言っているのではなく、言うなれば、小人(しょうじん)の祈祷になるな、と言っているのだと思います。小人の祈祷というのは、利己的な願望を神頼みで叶えてもらうための祈祷、現世利益(げんせいりやく)的な祈り、困った時の神頼みのことです。孔子の一番嫌ったことでしょう。正にそれを子路がやった訳です。孔子としては叱るのは当然ですが、子路の気持ちは良くわかるし、嬉しくもあったに違いありません。

 君子の祈祷は、エゴ、利己的な欲望からではなく、幸せを願う自己犠牲の祈りです。浄土真宗の『歎異抄(たんにしょう)』第五章に出てくる「親鸞(しんらん)は父母の孝養のためとて、一返にても念仏申したること、いまだ候(さうら)はず。(私(わたくし)親鸞は世間で信じられている、親を救って親孝行になるという目的のための念仏は、未(いま)だ曽(かつ)て一度たりともしたことがありません。)」という親鸞の言葉にも通じるものがあるように思います。我慾で神や仏に思い通りにしてもらおうなんていう根性は、余りにも虫が良過ぎるというものでしょう。