1 学而第一 15

Last-modified: Tue, 08 Jun 2021 10:33:27 JST (1060d)
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☆ 学而 第一 十五章

 

 子貢曰 貧而無諂 富而無驕 何如 子曰 可也 未若貧而樂 富而好禮者也 子貢曰 詩云 如切如磋 如琢如磨 其斯之謂與 子曰 賜也 始可與言詩已矣 告諸往而知來者也

 

 子貢曰く。貧(まづ)しくして諂(へつら)ふこと無く、富みて驕(おご)ること無きは、何如(いかん)。子曰く。可なり。未(いま)だ貧しくして樂しみ、富みて礼を好む者には若(し)かず。子貢曰く。詩に云ふ、切(せっ)するが如(ごと)く磋(さ)するが如く、琢(たく)するが如く磨(ま)するが如しとは、其(そ)れ斯(これ)の謂(いひ)か。子曰く。賜(し)や、始めて与(とも)に詩を言ふ可きのみ。諸(これ)に往(いく)を告げて來(くる)を知る者なり。

☆ 意訳 (心理屋の勝手解釈)

 子貢(しこう)が言いました。

 貧しくてもいぢけて諂(へつら)うような気持を持たず、裕福であっても傲慢(ごうまん)になって驕(おご)り高ぶるようなことがない、ということであれば、立派な人と言ってもよいでしょうか。

 先生が言われました。

 うん、いいね。しかし「貧しくても貧しさの中で素直に正しい生き方を楽しみ、裕福であっても皆への思いやりから礼儀正しく愛情をもって接するのが好き」という人には及ばないね。

 子貢が言いました。

 そうか。まだ上があったか。そうだな、うん。先生、詩経(衛風(えいふう)、淇澳篇(きいくへん))に、偉大な人物は、自分を鍛(きた)え上げた上にも尚(なお)、更に鍛え上げる、という意味の「切磋琢磨(せっさたくま)」という詩句がありますが、正(まさ)にこのことなのですね。これで善いと解った気になって先生に質問したのですが、もっと立派な人の在り方がわかりました。私自身更に切磋琢磨していきます。

 先生が言われました。

 賜(し)(子貢)、お前はほんまに素晴らしいやっちゃなあ。相手が居(お)らんで寂しかったんやけど、初めて、お前とやったら詩(詩経)の話を一緒にできるがな、と思えたで。それにしても、切磋琢磨っちゅうのは私(わい)が言うたろ思うてたんやけどな。お前は、東京行くのに行きしの方法言うたら、帰りし如何(どお)するんか言うことまで解りよって、往復切符を買うてくるようなやっちゃなあ。(孔子の喜びの文学的表現?として変な大阪弁になりました。)

 

☆ 補足の独言

 この章の前半は、孔子の思想を教えてもらえるところです。貧富の在り方もそうですが、楽しむ好むという心の姿勢の在り方こそが大切だ、という感性の基本姿勢です。論語の初っ端から、このことが一貫して流れているように思えます。

 後半は、孔子が普段の生活の中で、如何(どん)な不満を懐いていたのか、ということを垣間見(かいまみ)せてくれる貴重な一文だと思います。孔子は芸術、特に詩と音楽が大好きだったようです。この点は、墨子(ぼくし)と正反対であったようです。孔子と同じく愛の重要性を強く語りながら、芸術的な感性は皆無だったようです。カントも、芸術的な感性は乏しかったようで、バッハよりも兵舎の起床ラッパの方が良い、と言っていたくらいですが、墨子は音楽を憎んでまでもいたように思われます。音楽こそは税金の無駄遣いの最たるものだ。宮廷の音楽が農民の生活を圧迫しているのだ。音楽を廃止するだけで生活は楽になる、ということを、事細かに論証しています。

 孔子は違いますね。孔子にとって大切なのは心です。音楽も詩も心です。それらは心であるからして、心を揺さぶります。それ故に、善い詩や善い音楽が人々の心を浄化し、和をもった美しい社会を創り上げるのです。だから詩や音楽についても、皆と深く語り合いたい。それができるためには、相手方もその感性をもっていて理解できる必要がある。そんな話し相手が欲しい。しかし、いくら詩や音楽が大切であるといっても、現実の生活や社会における仁の実践の方がもっと重要です。その点では申し分の無い顔回も、芸術的な感性に関してはからきし駄目だったように思えます。丁度カントがそうであったように。子路も話し相手になりそうにはありません。そんな欲求不満と寂しさを抱えていた孔子にとって、子貢のこの芸術的感性を示す発言は、孔子をして狂喜乱舞せしめたであろうことは、想像に難くありません。