2 為政第二 17

Last-modified: Tue, 08 Jun 2021 11:14:32 JST (1060d)
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☆ 為政第二 十七章

 

 子曰 由 誨女知之乎 知之爲知之 不知爲不知 是知也

 

 子曰く。由(いう)、女(なんじ)に之(これ)を知るを誨(をし)へんか。之を知るを之を知ると為(な)し、知らざるを知らずと為す。是(こ)れ知しるなり。

 

☆ 意訳 (心理屋の勝手解釈)

 先生が子路に言われました。

 由(ゆう)(子路)や、貴方(あなた)に「知る」ということについて教えましょう。宜(よろ)しいですか。総(すべ)てを知っていることが「知る」ということではありませんよ。ここのところを間違えないようにして下さい。

 先づ、「知っていることは知っている、ときちっと自覚すること」です。そしてこの次が大事なことですが、「知らないことは知らない、とはっきり認めること」。勿論、自分に対しても他人(ひと)に対してもです。素直に正確に、知らないことを知らないと認識することができたならば、それこそが「知る」ということなのです。

 総てのことを知るということは、誰にもできません。しかし自分が何を知らないかということが解っていたならば、調べるなり尋(き)くなりして、知る手立てのあることは知ることができるのです。

 恥じることなく素直に知らざるを認めて努力しなさい、ということですね。

 

☆ 補足の独言

 この孔子の言葉は、約(つづ)めて「知らざるを知らずとせよ、これ知るなり」と言ってよいと思います。

 孔子より百年弱後の古代ギリシャの哲学者ソクラテスが、同じようなことを言っています。彼の言葉は「無知の知」です。

 ソクラテスは悩みました。「世のソフィスト(知者、哲学者、詭弁家)達はよく物事を知っていると言うから訊(き)いてみると、このお粗末な私の方がよく知っている。一体、彼等と私とは何処(どこ)が違うのだろう」と。

 悩んだ挙句(あげく)に出た結論は、「そうだ、彼等は自分が無知である、ということに気が付いていない。私は自分が如何(いか)に何も知らないか、ということを痛感している。知識量に関しては彼等と私とはまあ、団栗(どんぐり)の背競(せいくらべ)のようなものだ。しかし私は、自分が無知であるということを知っている。その分だけ彼等よりは私の方が賢い、ということは確かだ。自分が無知であることを知らなければ、成長することも他人(ひと)の役に立つこともできないではないか」ということですね。

 ソクラテスはデルフォイの神託(しんたく)「汝自身を知れ」を信じて、徹底的に自分自身を掘り下げ見詰め続けました。それによって、この「無知の知」に辿(たど)り着くことができたのです。

 私達は、見栄(みえ)からか劣等感からか、つい僅(わづ)かな知識をひけらかして、自分の無知を恥ぢて隠そうとしてしまいます。よく考えてみると、無知を恥ぢることこそが無知の証(あかし)である、ということですよね。孔子はそのことを伝えたかったのだと思います。