3 八佾第三 1

Last-modified: Fri, 11 Jun 2021 23:27:48 JST (1057d)
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☆ 八佾第三 一章

 

 孔子謂季氏 八佾舞於庭 是可忍也 孰不可忍也

 

 孔子(こうし)、季氏(きし)を謂(い)ふ、八佾(はちいつ)、庭(てい)に舞(ま)はしむ。是(これ)をも忍(しの)ぶ可(べ)くんば、孰(いづ)れをか忍ぶ可からざらんや。

 

☆ 意訳 (心理屋の勝手解釈)

 孔先生が季孫(きそん)氏のことを言われました。

 天子(てんし)及(およ)び周公旦(しゅうこうたん)の子孫である魯(ろ)の君主は八佾(はちいつ)の舞(まい)、一般の君主である諸侯(しょこう)は六佾、大夫(たいふ)は四佾、士(し)は二佾と決まっています。「佾(いつ)」は「八体の人」という意味の字で、一列八人の踊り手を意味します。八佾は一列八人が八列で合計六十四人という、実に豪華な舞です。しかし季氏は大夫ですので四佾三十二人の舞しか許されません。

 この天子と魯公にしか許されない八佾の舞を、一介(いっかい)の大夫である季氏が自分の家の堂の前で行う、というのは僭越(せんえつ)の極(きわ)みです。もしもこの傲岸不遜(ごうがんふそん)な振る舞いをも我慢して許さなければならないのだとしたら、この世の中に許されないものなど存在しなくなります。このような人は、如何(どん)な悪事でもやってのけるでしょう。魯国の先行(さきゆ)きが心配です。

 

☆ 補足の独言

 専政者の、正義を無視した理不尽(りふじん)な振る舞いに対する、孔子のやり場のない憤(いきどお)りと、自分の力では何ともできないもどかしさがびんびんと伝わってくる文章ですね。

 孔子の思いでは、しあわせに暮らせる世の中を実現するために、先づ第一に必要なことは「秩序」である、ということだと思います。そうすると、序列、上下関係ということも大変重要なことになってきます。それが「礼」の形式的な根幹になってくるのではないかと思いますが、本質的な根幹ではありません。孔子にとっては何時でも、本質的な根幹は「心」です。礼の心は「相手を敬い大切にし、相手のことを自分よりも優先する、という愛」です。

 動(やや)もすると、礼を形式に走って理解する人は、見てくれや行動だけで杓子定規(しゃくしじょうぎ)に善し悪しを決めつける傾向があります。孔子はそうではありません。季氏の礼を失した行為の裏に潜(ひそ)む、国の秩序を乱すことによって民を不幸に導いている傲岸不遜な心に対して憤っているのです。

 この後(のち)三桓(さんかん)(三家、季氏達)の乱(みだ)した秩序を恢復(かいふく)するための戦いが繰(く)り広げられる訳ですが、結局は敗れて、亡命の旅が始まることになります。もどかしさを克服して、力の限りに義を貫き通したのですね。

 

 ・尚、八佾は、文字通り一佾が八人でそれが八列、という解釈と、佾は八人の列ではなく単に列という意味で、八佾は八人八列六十四人、六佾は六人六列三十六人、四佾は四人四列十六人、二佾は二人二列四人、という解釈があるそうです。