2 為政第二 24

Last-modified: Wed, 09 Jun 2021 16:59:25 JST (1059d)
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☆ 為政第二 二十四章

 

 子曰 非其鬼而祭之 諂也 見義不爲 無勇也

 

 子曰く。其(そ)の鬼(き)に非(あら)ずして之(これ)を祭るは諂(へつら)いなり。義(ぎ)を見て為(せ)ざるは勇(ゆう)無きなり。

 

☆ 意訳 (心理屋の勝手解釈)

 先生が言われました。

 してはいけないと分かっていて、尚(なお)それをするということは、その裏に必ず下心があります。他人(ひと)の迷惑や被害を省(かえり)みず、自分の利益だけを計算する浅ましさです。祭儀(さいぎ)を例にとってみてみましょう。

 神に敬意を払ってお祭りすることは大切なことです。しかし、お祭りしなければならないのは、自分の先祖や氏神です。他人の先祖や氏神に対しては、敬意を払いますが、お祭りには関わりません。それを祭るということは、その神の子孫(その神を祭る可き役割を担(にな)っている人)に媚(こ)び諂(へつら)って、お金や地位権力を得ようという企(たくら)みがあるからか、その神に諂って御利益(ごりやく)に預(あず)かろうとしているか、ですね。或いは如何(いか)がわしい宗教に惑(まど)わされて、我が家の先祖や氏神を疎(おろそ)かにする、ということもあります。これらは、してはいけないことをする、諂いの行為です。

 反対に、せねばならないことをしない、ということがありますね。その原因は、勇気が無いからです。不正なことをしている人を見たとき、何が正しい行いかが解っていたならば、如何(どう)してはいけないのか、如何する可きなのか、をその人に伝えなければなりません。ところが、不正をする人というのは、してはいけないことをする人、という前(さき)に述べた類(たぐい)に当て嵌(は)まる人です。上に媚び諂う人というのは、下には傲慢(ごうまん)不遜(ふそん)で威圧的です。直ぐに暴力に訴える人も多い。それでも義を通すということは、勇気が無いととてもできることではありません。如何がわしい新興宗教だと、後ろ盾に権力者がついていたり、狂信的な信者達が力尽(ちからづ)くで監視していたりもします。何ともはや難しいものですね。

 まあとにかく、「してならぬことをするは諂い、す可きことをせぬは意気地(いくじ)無し」ということは理解していてください。

 

☆ 補足の独言

 一説に因りますと、当時新しい神を奉じる新興宗教が魯の国を席巻(せっけん)し、祖霊を蔑(ないがし)ろにする風潮が広まっていたので、孔子は心を痛めていた、ということだそうです。この説に基づいて訳してみました。

 この章は、前半と後半の繋がりが悪く、理解に苦しむ章です。もしかして孔子は新興宗教の問題に困り、本来在る可き姿を述べたのを、記録者が重複(ちょうふく)を避ける心算(つもり)で、前半は宗教論だけを取り上げ、後半は基本論だけを取り上げたのではないかな、なんて思って、こんな訳にしてみました。

 ・孔子にとって、神を祭るというのは、災(わざわ)いを恐れ御利益(ごりやく)を願う、ということではありません。それでは神に媚(こ)びているだけです。神を本当に敬(うやま)っていたならば、媚びる気持など毛頭(もうとう)起こらない筈(はず)です。神は都合(つごう)良く助けてくれるのではなく、看守(みまも)ってくれているのです。ですから、神にはお願いをするのではなく、感謝をするものだ、ということになります。

 「鬼神を啓(けい)して之を遠ざく」(雍也第六、二十章)とありますが、近づくということは、甘える、ということです。甘えるということは利用するということです。これでは尊敬するということとは程遠いことになりますね。

 「神を敬する」ということは、必然的に「遠ざく」という敬虔(けいけん)な態度になってくるのです。如何(いか)がわしい宗教は必ず現世利益(げんせりやく)を言ってきます。この現世利益という甘えでもって敬う心を無くし、神を疎かにするようになってしまうのです。孔子にはそれが許せないことだったのではないでしょうか。