3 八佾第三 23
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☆ 八佾第三 二十三章
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子語魯大師樂曰 樂其可知也 始作翕如也 從之純如也 皦如也 繹如也 以成
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子、魯(ろ)の大師(たいし)に楽(がく)を語りて曰く、楽は其れ知る可きなり。始めて作(おこ)すときは翕如(きふじょ)たり。之を従(はな)つときは純如(じゅんじょ)たり。皦如(けうじょ)たり。繹如(えきじょ)たり。以って成る。
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☆ 意訳 (心理屋の勝手解釈)
どの国にも、国立の交響楽団があります。孔子は久し振りに魯国の交響楽団の演奏を聴いてとても感動し、満足しました。演奏会の後(あと)、孔子は大師(たいし)に、今の感動を感謝と共に述べ伝えました。大師というのは、日本で言うと、(日本には国立の楽団はありませんので、)NHK交響楽団の音楽監督兼主席常任指揮者のようなものです。つまり、楽団の一番偉い人です。
先生は満面に満足の笑みを浮かべて、このように伝えられました。
いや、本当に心が素直に伝わってくる実に美しい、わかり易い演奏でした。矢張り魯国は善いですね。是非私の感想をお伝えしたいのですが、お聴き願えますでしょうか。
(翕きゅう):先づ全合奏で始まりましたが、美事に統制がとれていて衝撃的でした。初っ端からジーンときましたよ。
(純じゅん):そしてその美しい全合奏の響きが変容しながら流れていく中で、もう全くこの音楽の世界に魅(ひ)き込まれてしまいました。何という美しい響きだったことでしょう。
(皦きょう):暫(しばら)くその心地良さに浸(ひた)っていると、ガラッと曲想が変わりましたね。それぞれの楽器が自分の個性を確(しっか)りと披露(ひろう)しながら入れ替わっていく。目の覚めるような華やかさがありながらも、爽(さわ)やかに舞い踊り繋(つな)がれていく心地良さ。
(繹えき):ここまで、起(き、翕きゅう)、承(しょう、純じゅん)、転(てん、皦きょう)ときて、愈々(いよいよ)結(けつ)になりました。今までの心の躍動の総てが混じり合い溶け合って思い起こされ、余韻(よいん)となって何時までも尾を曳(ひ)いていきました。演奏が終わっても、私の心の中には尚(なお)暫(しばら)く鳴り響(ひび)き続けておりました。
嗚呼(ああ)これで完結だ。何と素晴らしい音楽、何と素晴らしい演奏だろう、と感激致しました。心から感謝しております。有り難うございました。
大師もとても喜んで言われました。
いえいえこちらこそ、そこまで深くご理解戴(いただ)けて、楽人としてこれほど嬉しい名誉なことはありません。楽人冥利(みょうり)に尽きます。有り難うございました。
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☆ 補足の独言
この章は、孔子が音楽の神髄を専門家である大師に教えた、という解釈が多いように思います。それはないだろう、と思うのです。それでは礼に反するでしょう。それにこの孔子の語る音楽の内容は、決して一般論とは思われません。明らかに、特定の曲に対する解釈でしょう。そんな思いからこのように訳してみました。