3 八佾第三 3

Last-modified: Thu, 17 Jun 2021 22:01:04 JST (1051d)
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☆ 八佾第三 三章

 

 子曰 人而不仁 如禮何 人而不仁 如樂何

 

 子曰く、人にして仁(じん)あらずんば、礼(れい)を如何(いか)にせん。人にして仁あらずんば、楽(がく)を如何にせん。

 

☆ 意訳 (心理屋の勝手解釈)

 先生が言われました。

 季孫氏を初め三家の人達は、一見すると礼を確(しっか)りと身につけて実践しておられます。祭儀(さいぎ)祭礼(さいれい)も怠(おこた)りません。楽(がく)もそうです。善い美しい音楽を聴いて楽しんでおられます。しかし、礼にしても楽(がく)にしても、やれば良いっちゅうもんではありません。大切なのは心です。心とは愛なのです。

 「礼」は他人(ひと)の心を大切にする心からの行為です。「楽」は自分の心を楽しませて清めてくれる魂の作用です。そして「楽」は共有することによって、えも言われぬ深い絆(きづな)を生じさせます。礼や楽は、このような気持で実践して初めて、礼たり得、楽たり得るのです。

 彼等が幾(いく)ら礼楽を好んで行っていても、謙譲(けんじょう)敬愛(けいあい)の「仁(じん)」という心がない限り、礼も楽も何の意味も持たないのです。

 

☆ 補足の独言

 孔子は、時代や環境が違っていたならば、偉大な音楽家になっていたのではないか、と思われるような記述があちらこちらに出てきます。若しかすると孔子の怒りは、音楽に対する冒瀆(ぼうとく)が拍車(はくしゃ)をかけている面もあるのではないかな、と思ったりもします。孔子にとって音楽は本来心を清めるものであるからして、心を汚(けが)すような淫らな音楽は認められないし、神聖な音楽は、心を引き締めて正しく演奏され、正しく拝聴しなければならない。これが孔子にとっては決して「ねばならない」ということではなく、極(ごく)自然な当然の感覚だったのだろう、と思われます。