3 八佾第三 4

Last-modified: Thu, 01 Jul 2021 22:42:21 JST (1037d)
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☆ 八佾第三 四章

 

 林放問禮之本 子曰 大哉問 禮與其奢也寧儉 喪與其易也寧戚

 

 林放(りんぽう)、礼の本(もと)を問ふ。子曰く、大(おほ)いなるかな問(とひ)や。礼は其(そ)の奢(おご)らん与(よ)りは寧(むし)ろ倹(けん)なれ。喪(も・そう)は其の易(をさ)まらん与りは寧ろ戚(いた)め。

 

☆ 意訳 (心理屋の勝手解釈)

 魯の国の林放(りんぽう)という人が、礼の本質について質問しました。

 先生は言われました。

 おお、とっても良い質問ですね。これは本当に大切なことです。

 そういう質問をするということは、今世間で行われている礼の在り方に対して、貴方は疑問を懐(いだ)いている、ということですね。そう、それで善いのです。

 巷(ちまた)では、殊に権力やお金を持っている人達の間では、礼が権威や金の力を見せびらかす道具になってしまっています。豪華で美しいほどより美事に礼に叶っている、という可笑(おか)しな錯覚が蔓延(まんえん)していますね。

 豪華な衣装は、豪華さで負けた相手に惨めな思いをさせて、嫉妬(しっと)や恨みを買います。そこには唯、相手を打ち負かした自己満足があるだけです。

 礼は相手を思いやる心から生じてくるものです。勿論(もちろん)、汚い不潔な服装は相手を不愉快にさせるので非礼になりますが、お金をかけるのが礼ではありません。

 華美は礼に非ず、礼は倹(けん)にして清楚なり、と心得てください。

 それから、礼の重要な作業に喪(も)の儀式があります。喪は、礼の本質から見てみますと、手順良く無駄なく順調に運ばれていけば善い、というものではありません。そのようだと、遺族の心が置き去りになってしまいます。遺族の方々と一緒に亡くなられた方を悼(いた)み、遺族の方々を痛むのです。それが最も礼に叶った在り方ですね。

 礼は形式や見てくれではありません。相手の心を察して情を大切にして接することこそが礼なのです。

 

☆ 補足の独言

 孔子といえば、礼を重んじて常に正しく生きて、愛を説いた理想的な教育者、といったようなイメージがありますが、その通りだけれども一寸違うのですね。何が違うかって、「礼」が違うのです。

 「礼」と言われると、「礼儀正しい」というイメージです。それ乃(すなわ)ち真面目(まじめ)、堅物(かたぶつ)と言う印象が連想されてきます。

 しかし論語を読んでいると、それが如何に誤解かということが解ってきます。堅物どころか、こんな柔軟な人も珍しいでしょう。「礼は心だ」と言い切って、形骸化(けいがいか)した礼を嘆いているのです。心を置き去りにする合理化は許せないのです。

 「喪(も)は悼(いた)め、痛(いた)みを共にしろ」なんて当たり前のことです。この当たり前に誰が気付きますか。