4 里仁第四 9

Last-modified: Fri, 10 Sep 2021 15:54:33 JST (966d)
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☆ 里仁第四 九章

 

 子曰 士志於道 而恥惡衣惡食者 未足與議也

 

 子曰く、士(し)、道(みち)に志(こころざ)して、悪衣(あくい)悪食(あくしょく)を恥(は)づる者は、未(いま)だ与(とも)に議(はか)るに足らず。

 

☆意訳 (心理屋の勝手解釈)

 先生が言われました。

 高価な着物や贅沢な食事は心地良く楽しいものです。しかしその様な現実的な楽しみに心を囚われかまけていると、真実世界の道は見えなくなってしまいます。

 苟(いやしく)も真実の道を求めようと決意した者であるならば、地位や財産、豊かな暮らしや世間の目、といった物質的表面的な楽しみや喜びには全く心が向かなくなるはずです。見窄(みすぼ)らしい着物や粗末な食事に対して、恥ずかしいという様な気持が起こるということは、道に志しているという言葉が口先だけで、芯からの決意は未(ま)だ全くできてはいない、ということなのです。

 道の探求の作業は、言葉だけでてきるものではありません。常に自分の心(魂)と向かい合って、言葉を能く考えて実践してみて、腑に落ちないところが少しでもあれば、そこをまた能く考えてまた実践してみる、という作業を延々と積み重ねていかなければなりません。そうやって納得できたならば、それをもっと拡げ深めてまた考え実践するという作業を進めていくのです。心底からの覚悟が確(しっか)りとできているのでなければ、とてもこの私達の研修にはついていけるものではありません。早く道に集中できるようになって欲しいですね。

 

☆ 補足の独言

 見窄(みすぼ)らしい着物や食事を嫌がり、格好良い綺麗な服や豪華で美味しい食事を好み喜ぶのは、人間の自然な心性であって、孔子はそのことを決して否定していません。寧ろ、孔子自身が美の熱烈な崇拝者ですから、積極的に肯定している、と言っても良いのではないでしょうか。

 しかしこの章で言っているのは、そうした一般論ではなくて、特殊な状況下のことです。それは「道に志す」という状況ですね。道に志す場合は如何(どう)か。「その場合は斯(か)く在らねばならぬ」ではありません。「そうであるならば、必然的にこうなってしまうものなのだ」と言っているのです。

 本当に道を志しているならば、衣服や食事のことなど一切気にならなくなるものです、と言っているのです。

 そしてまた、そんなことが気になるような下らん奴は、話をする価値もない、とうんざりして怒っている、というのでもありません。

 道は、理解すれば良い、というものではありません。理解したことを実践し、体験することで身につき深まっていくものです。ですから、普段の生活態度を見ていたならば、それで学習の進度が分かります。それは道を志したときから同じことなのです。

 孔子には弟子の心掛けが見え見えだったことでしょう。口先だけで「道を志しています」と言っていても、恥じる態度を見れば、「嗚呼、これは学ぶ姿勢ができていない」と分かる訳です。それは孔子にとっては、残念な悲しいことだったに違いありません。

 「未(いま)だ与(とも)に議(はか)るに足らず」とは、「今は未(ま)だ心が定まっていないから一緒に話し合うことが無理だけど、早く本気になって見栄からくる恥の思いもなくなって、共に語れる日がくるのを待っているよ」という孔子の弟子に対する指導と願いなのではないでしょうか。