5 公冶長第五 2

Last-modified: Thu, 25 Nov 2021 18:35:42 JST (890d)
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☆ 公冶長第五 二章

 

 子謂南容 邦有道 不廃 邦無道 免於刑戮 以其兄之子妻之

 

 子(し)、南容(なんよう)を謂(い)ふ。邦(くに)、道(みち)有(あ)るときは、廃(はい)せられず。邦(くに)、道(みち)無(な)きときは、刑戮(けいりく)に免(まぬか)ると。其(そ)の兄(あに)の子(むすめ)を以(もっ)て之(これ)に妻(めあは)す。

 

☆意訳 (心理屋の勝手解釈)

 また或るとき、先生は弟子の南容(なんよう)のことを言われました。

 彼は国が治まっていて正しい政治が行われている中であれば、必ず重用(ちょうよう)されて善い働きのできる力を有(も)った男です。そして、国が乱れて不正が横行するような酷(ひど)い状態であっても、彼は謙虚な口数の少ない人物ですから、罪に陥(おとしい)れられて罰せられるということもないでしょう。

 兄さんは孔家の跡取りであり、世間体もちゃんとしていないと安心できないでしょう。南容ならば、人物が優れているだけでなく、現実生活も波風立てずに穏やかに乗り切っていける男です。姪の婿に迎えるには最も相応しいかと思います。

 そのように言われて先生は、お兄さんの娘に南容を娶(めあわ)せました。

 

☆ 補足の独言

 孔子にとっては「義」、正義が一番大切なことです。が、それが本当に一番ではありません。もっと大切なことがあります。それはその正義が、生きた義である、ということです。行動行為、現実の結果が正しいか、ではなく、その行動を行うときの心が正しいか、なのです。良い結果が出ても、その心根が悪ければ他(ほか)のときには不善の結果が出るかも知れません。善の結果は偶々(たまたま)巧くごまかせて騙すことができた、ということでしかありません。現実の結果という表面を見るのではなく、心を観る(看る)ように心掛けていれば、騙され難(にく)くなります。

 孔子がその目で公冶長と南容を観たときに、それぞれの心の正義を認めた、ということでしょう。然し、公冶長は表面不善内面善であり、南容は表面善内面善です。内面が善だから善いのでしょうが、南容の表面善には、世間の体裁(ていさい)があるように見受けられます。これは孔子が一番嫌っていることのはずです。「義は生きた義でなければならない」と言いましたが、筋よりも大切なものは配慮、思い遣りです。自分の娘だったら、自分が正しいと確信する義を通せば善い。何かあっても自分が娘を守ってやれる。然しお兄さんの娘ということになるとそうはいきません。お兄さんは君子ではなく、普通の善い人だったようです。足が悪く気の弱い人だったのではないか、と勝手に想像するのですが。このお兄さんへの思い遣りから、お兄さんを守るための配慮も確(しっか)りと為されているのですね。

 「巧言令色鮮(すくな)し仁」(学而第一、三章)などと言いながら、南容の世渡りの抜け目なさを評価している、ともとれる判断ですが、お兄さんの立場や性格や能力を考慮したとき、この場合「令色」が必要であるという判断が出てきます。これがその時その場のその人に対する臨機応変な対応であり、これこそが「生きた義」なのだ、と弟子達は理解したのでしょう。

 このことに感動した編集者は、その感動を伝えるために、「公冶長」「南容」と冒頭に続けて置いたのだ、と思います。

 余談ですが、仁侠(にんきょう)物(やくざ物)の映画や小説には、「義理と人情の板挟み」という言葉がよく出てきます。これは義が死んでいるから挟まれてしまうのです。死んだ義というものは、形骸化(けいがいか)しているが故に、簡単に悪用されます。一宿一飯の恩義という名目で対立組織の強者(つわもの)を殺させる、というのなんかはその典型例でしょうね。また人情というのは、本来、人(他人)の心の必然的な動き、流れを意味します。この心の流れ、すなわち感情を共に感じて(共感して)悲しみや苦しみを分かち合うのが人情です。これは正(まさ)しく思い遣りの世界です。生きた義は思い遣りですから、義理と人情とは対立するはずはないものです。板挟みになったときには、義理の死骸か悪用がありはしないか、とよく考えてみてください。

 また時には、人情の方に問題があることもあるようです。板挟みになる人情というのは、欲望の感情の様ですね。相手の思い遣りに甘えて(利用して、付け込んで)、自分の我儘(わがまま)を満たそうとする。お互いの慾望が一致したときには、義理が廃(すた)って共に生き地獄に落ちるということにもなりかねません。

 妄想が限りなく拡がっていきそうなので、この辺で終わります。