5 公冶長第五 3

Last-modified: Fri, 10 Dec 2021 15:44:58 JST (875d)
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☆ 公冶長第五 三章

 

 子謂子賤 君子哉若人 魯無君子者 斯焉取斯

 

 子、子賤(しせん)を謂ふ、君子なるかな、若(かくのごと)き人。魯(ろ)に君子者(くんししゃ)無くんば、斯(こ)れ焉(いずく)んぞ斯(これ)を取らん。

 

☆ 意訳 (心理屋の勝手解釈)

 先生の晩年に、子賤(しせん)(姓は宓(ふく)、名は不斉(ふせい)、字(あざな)は子賤)という先生より四十九歳も年下の若者が入門してきました。孔子学園で学んで、単父(ぜんほ)という県の長官として赴任することになりました。讒言(ざんげん)誹謗中傷(ひぼうちゅうしょう)のまかり通る世の中ですから、彼は一計を案じて、王さんが助手として付けてくれた役人が名前を書いているところを、そのお役人の肘(ひじ)を掣(ひ)っぱって邪魔をした上で「下手くそ!」と叱りつけました。当然そのお役人は腹を立てて帰り、王さんに訴えました。ところが王さんは、子賤のこの行動に籠められた伝言を素直に理解して「そうか。儂(わし)が子賤の肘を掣(ひ)っぱって彼の邪魔をしていたということか。よっしゃわかった。単父に善かれと思うところを存分にやってみんさい」とお墨付きをもらいました。このことから「掣肘(せいちゅう)を加える」(自由に行動させない)という言い回しが誕生したのだそうです。

 さて、お墨付きを貰って彼は何をやったのか、というと、それが何と、何もしなかったのです。来る日も来る日も日がな一日、屋敷から出ることもなく、琴ばかり弾いていたら町が治まった、というのです。前任者の巫馬期(ふばき)は、夜の明ける前から夜中過ぎまで身を粉にして駆けずり回って漸(ようや)く治めた、という難しい町です。河合隼雄先生の言われた「カウンセリングの極意は何もしないことである」という言葉がそのまま当て嵌(は)まるお話しですね。

 巫馬期の驚きに対して子賤はこう応えたようです。「貴方は自分独りが頑張って町を治めました。だからよくぞ死ななんだ、というくらいに大変だったのです。私は総て他人(ひと)に任せています。ですからとっても楽で、毎日楽しく琴を弾いて過ごせるのです」と。

 実際はこんなことで治まる訳はないので、先生は子賤に交友関係を尋(たず)ねられました。子賤はこう答えました。「私には父として仰ぎ仕える人が三人、兄として仰ぎ慕う人が五人、友として信頼し合える人が十二人、それと師が一人います。」

 これを聞いた先生は「成る程・・・」と納得して深く頷(うなづ)かれました。

 「彼は人に対しての礼が美事に身に付いている。君子を鑑とし、目上の者を見習い、友と切磋琢磨し助け合う、という姿勢で実践ができている。単父(ぜんほ)のことは長老達に教わり町の人達が満足するように取り計っているのであろう。町の人達の気持ちを能く理解して、その人達を信頼して任せれば、後は何か事が起きたときに備えて、のんびりと屋敷に控えていればよいだけだ。この若さでこのように深い采配がとれるのは、彼の資質だけではなく、彼を導く善き人達が彼の周りに沢山居るということだなあ。いや、彼がそういう人を見出(みい)だす力を持っているということだ。」というようなことを思いながら、先生は若かりし頃の、二十歳(はたち)前後の自分の体験を思い出しておられました。

 そうした或る日、先生がこの子賤(しせん)のことを言われました。

 このような人物こそ、君子ですね。若いと如何しても理想に燃えて積極的な行動に出てしまい、信じて待つ、ということは中々にできないものです。こんな若さで斯くまで謙譲な態度がとれるということは、彼の周りに指導してくれる君子が沢山居るということです。そうでなければ起こり得ないことですから。魯の国も未だ未だ捨てたものではないですね。本当に嬉しいことです。

 

☆ 補足の独言

 この章は、孔子が教育者である、ということが能く伝わってくるお話でもあります。生まれつきの能力よりも、教育薫陶(くんとう)こそがその人を育てるのだ、という信念です。

 「君子というものは、生来の資質によって成るものではなく、教育的薫陶の成果である。自分もそうやって君子への道を歩んできた。今私(孔子)がこうして在るのも、沢山の師や先輩や仲間達の薫陶があったればこそだ。また、彼の信じて見守る姿勢は年の功と言われる体験無くしてできるものではない。善き師がいて、そして彼自身がそれを素直に受け止めたからできたのであろう。」と、孔子はこのように思ったのかも知れませんねえ。

 この謙虚な姿勢は、「子賤」という字(あざな)にも表れているようです。

 「琴を弾いているだけで治まった」というのは、そうなるための下準備に徹底的に労力を割(さ)いている筈です。自分の配下となる民の信頼を得るために、礼を尽くしてできるだけ深く付き合い続ける、ということをしたのでしょう。礼を尽くすとは、相手を敬い信じて、その願いや思いを汲(く)み上げて、誠意をもって対応することです。若しかしたら、お役人に掣肘を加えたのは、「私は貴方々の嫌いな役人の味方ではありませんよ」という意志を伝えるための政略的演技の意図もあったのかも知れませんね。