6 雍也第六 16

Last-modified: Thu, 23 Feb 2023 13:02:11 JST (435d)
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☆ 雍也第六 十六章

 

 子曰 質勝文則野 文勝質則史 文質彬彬 然後君子

 

 子(し)曰(いは)く、質(しつ)、文(ぶん)に勝(か)てば則(すなは)ち野(や)なり。文、質に勝てば則ち史(し)なり。文質(ぶんしつ)彬彬(ひんぴん)として、然(しか)る後(のち)に君子(くんし)なり。

 

☆ 意訳 (心理屋の勝手解釈)

 先生が言われました。

 一応こう言いましょうか。「心が見てくれに勝てば、それは粗野(そや)である」と。

 しかし能く考えてみて下さい。誠実さ(信)や思い遣り(仁)というものは、最大限であることが望ましいので、あり過ぎるということはありません。詰(つ)まりこれは、見てくれがちゃんとできていなければ、心が幾(いく)ら善くても粗野になってしまい、相手に上手(うま)く伝わらない、ということです。見てくれが負けている、足りないということですね。

 そしてその反対はこうなります。「見てくれが心に勝つと、それは形骸しかよう見ない事務屋になってしまう。」

 幾ら形だけが整っていても、心が伴っていなければどう仕様(しよう)もありません。規則や形式に囚われて情の解らない人物になってしまいます。それは心が負けている、足りないということです。

 そして結論はこうなりますね。「見てくれと心と共に生き活きと燃え盛(さか)って助け合って一体となり輝いてこそ、それで初めて心の大きな人、君子と言えるのです」と。これが本当の「礼」なのです。

 相手に不快な思いをさせずに気持ちよく居てもらうためには礼が必要です。礼は形に表れるものですから、その美しい振る舞いに目が行ってしまい勝ちになります。しかし、相手を大切にする思い遣りという心が伴っていなければ、それは礼とは言えません。単なる飾り(文)でしかありません。しかし飾りは、実質の心を豊かに肉付けし明確に伝達するためにも非常に大切なものです。質(心)も飾りも、程良く調和が取れていることが善いのではありません。共に目一杯輝いている(彬彬(ひんぴん))ことが必要なのです。どちらが足らなくても駄目なのです。

 

☆ 補足の独言

 素直に読むと、質も文も多過ぎても少な過ぎてもいけない。程良くあることが大切である、という中庸の教えのように取れます。孔子がそんなことを言うはずがない。これでは「仁も信も義も程良く適切にあれば善い」と言うようなものです。孔子を誤解するにも程(ほど)がある、と言いたくなります。

 せめて「文(ぶん)、質(しつ)に負(ま)ければ則(すなは)ち野(や)なり。質、文に負ければ則ち史(し)なり」というのなら、孔子がそんなことを言う訳がないにしても、孔子の思いと極端にずれているとは言わなくて済むのかな、と思いますが。

 明らかに小人の偽作としか思えないこの文章を、若し本当に孔子がこう言ったのだとしたら、如何(どう)理解すれば良いのだろうか、と悩んだ挙句(あげく)の「苦肉の訳」を試みてみました。