6 雍也第六 15

Last-modified: Sun, 19 Feb 2023 16:16:12 JST (439d)
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☆ 雍也第六 十五章

 

 子曰 誰能出不由戸 何莫由斯道也

 

 子(し)曰(いは)く、誰(たれ)か能(よ)く出(い)づるに戸(こ)に由(よ)らざらん。何(なん)ぞ斯(こ)の道(みち)に由ること莫(な)き。

 

☆ 意訳 (心理屋の勝手解釈)

 最近は、基礎勉強基礎訓練を怠って、直ぐにでも社会に出て、金銭地位権力名声を得たいと望む若者が増えてきて、先生は心を痛めておられました。そして或るとき、このような譬えで話されました。

 一般的に、家の中の自分の部屋、乃ち書斎には、片開きの小さな戸が一つあります。その部屋から外に出ようとするならば、必ずその戸を通らなければなりません。このことは誰でも解っていて、そうやっていますね。それと同じに、社会に出ていくためには、私の教えている道、人としての正しい在り方、他者(ひと)を敬愛し誠実に行動する、ということが身に付かねばなりません。この訓練が、書斎の戸に相当するのです。道を学ぶというのは、自分の心という部屋に社会に出るための戸を作る、という作業をしているのです。戸が完成しなければ、当然外に出ることはできません。道が完成していないのに社会に出る、ということは、戸を通らずに書斎から出るようなもので、そのためには書斎の壁を壊(こわ)さなければならなくなります。部屋は自分の心です。自分の心を、自分自身を壊して如何(どう)するのですか。道を学ぶという道を通らずに世の中に出ていけば、心の壁が崩(くづ)れて自分自身を保っていけなくなってしまいます。それに、君子の真似をしても、心が伴っていなければ、化けの皮は直ぐに剥(は)がれてしまいます。社会への戸である道の学習を、怠ることなく励んで欲しいものです。

 

☆ 補足の独言

 「学問に王道無し」。これは、幾何学で有名なギリシャのエウクレイデス(ユークリッド)が王様プトレマイオス一世が戸を通らずに壁を通り抜けようとしたのをお諫(いさ)めした言葉と言われています。古今東西問わず、何処(いづこ)も同じ秋の夕暮れ、のようですね。生活が楽になると、一層拍車(はくしゃ)がかかるようですが。

 日本でも本居宣長が晩年の書『うひ山(やま)ぶみ』の中で言っています。

 「学問は、ただ年月長く倦(うま)ずおこたらずして、はげみつとむるぞ肝要にて、」方法は大して重要ではない。どうであれ「怠(おこた)りてつとめざれば、功はなし」。不才(ふさい)の人、晩学(ばんがく)の人、暇(いとま)のない人であっても、努(つと)め励(はげ)めば、それだけの功がある。学問が一番嫌うことは、怠って「思ひくづをれて、止(やむ)ること」、あきらめてしまうことである、と。

 そして締め括りに和歌を詠んでいます。

 「いかならむ うひ山ぶみのあさごろも 浅きすそ野のしるべばかりも」

 如何したものであろうか。これから学問を学んでいこうとする者達が、修験道を志した山伏の如く、初めて霊山に登ろうと、質素な出で立ちで修行をしようとしている。彼等は軽い気持ちで、私に修行方法を教えてれ、と言ってくるが、どんな道を通ろうと、ただ一歩一歩大地を踏みしめて行くだけだし、私は何十年学んできても未だ未だ裾野を這いつくばってうろうろしている許りだ。私の言うことなど、ほんの入り口の道標(みちしるべ)となるに過ぎないのに。そしてまた、自分で見つける可き自分の道を、請われたからといって私の道を教えることが果たして役に立つのであろうか。却って災いになりはしないだろうか。大体こんな浅はかな私が教えて善いものなのか。

 釈迦の最後の言葉、遺言(ゆいごん)も「怠ることなく励めよ」ですが、皆さん異口同音に同じことを言っていますね。孔子が、修行を戸に譬えながら、道に譬えたまゝなのは、道を踏み外(はづ)さずに歩み続けねばならないからでしょう。戸を通ればそれで善し、ではないのです。初山踏(ういやまぶみ)の時だけではなく、宣長のように、何十年その道を究(きわ)めてきても、なお裾野に在るが如くに頂上を目指して足下(あしもと)を一歩一歩踏み締めながら歩み続けていくのです。これが孔子の言わんとする道なのではないでしょうか。

 『華厳経(けごんきょう)』には「初発心(しょほっしん)の時、便(すなは)ち正覚(しょうがく)を成(じょう)ず」とあります。本当にやる気を起こして覚悟をしたならば、そのとき既にその目的は達成されているのだ、というのです。覚悟のない思いというのは、「心ころころ」で少し心労(しんど)いことがあると直ぐにポシャってしまいます。初発心の思いというのは、そこに不退転(ふたいてん)の覚悟がある、ということなのです。不退転とは、倦(う)まず弛(たゆ)まず精進し続けることです。ですから初発心から何年経とうと何十年経とうと、悟りに至った後(のち)でも、「怠ることなく励めよ」ということが何よりも大切なことなのです。