6 雍也第六 20

Last-modified: Tue, 28 Nov 2023 16:30:52 JST (157d)
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☆ 雍也第六 二十章

 

 樊遲問知 子曰 務民之義 敬鬼神而遠之 可謂知矣

 問仁 曰 仁者先難而後獲 可謂仁矣

 

 樊遅(はんち)、知(ち)を問(と)ふ。子(し)曰(いは)く、民(たみ)の義(ぎ)を務(つと)め、鬼神(きしん)を敬(けい)して之(これ)を遠(とほ)ざくるは、知と謂(い)ふ可(べ)し。

 仁(じん)を問ふ。曰く、仁者(じんしゃ)は難(かた)きを先(さき)にして獲(う)ることを後(のち)にす。仁と謂ふ可し。

 

☆ 意訳 (心理屋の勝手解釈)

 先生の晩年は、子路が衛(えい)国に仕官して居なくなったので、樊遲(はんち)という若者が先生の身辺警護の役割を仰(おゝ)せ付かっておりました。樊遲は斉(せい)国との戦争に於いて冉有(ぜんゆう)の下(もと)で大活躍をした英雄です。

 或る時、この樊遲が先生に質問しました。

 先生、知とは何ですか。

 先生は言われました。

 知、知る、ということは、学問の基本です。学問は、環境が安定して皆が喜びをもって生活できる世の中を実現させるために行うものです。ですから知の第一番は、自分の日常の生活態度です。社会生活はそれぞれに役割があって、各々が自分の本分を確(しっか)りと務めることで社会の平安が得られます。この務めを果たすことが、「義(ぎ)」なのです。それができている上で、祖霊や神を心から敬うことですね。しかし祖霊や神に頼ることは間違いです。この世界のことは、幾ら考えても解らないことが一杯です。幸運とか不運とか言われますが、何故そうなったのか解らないからそう言うのです。解らないことは、勝手な思い込みで正しいとか間違いであるとかと決めつけてはいけません。祖霊や神が実在するのか、どれ位どんな力を持っているのか、というようなことは全く解りようがありません。けれども現に自分がこうして生きている、ということは幸運な訳で、若しかすると昔から言い伝えられているように、祖霊や氏神(うじがみ)が守ってくれているからかも知れない、と思われたりもします。だとすると、蔑(ないがし)ろにしては大変ですね。しかし本当は祖霊などは全くの幻想で、神罰等(など)何もないのかも知れません。どちらが正しいかは解らない訳です。であるならば、どちらであっても大丈夫なように、敬っておけば良い、ということになりますが、大切なのはそのようなことではありません。

 如何(どう)言っても、自分より偉大なる存在を認めると、人間、謙虚になれるのです。謙虚さこそが礼の心(精神)です。その謙虚という礼に叶(かな)った姿勢に因って人間関係を良くし、人々の信頼を得られます。傲慢な人は嫌われますからね。

 この時、確り気を付けなければならないことは、祖霊や神に対しては、心から敬いはするけれども、頼ってはいけない、ということです。

 敬わない、ということは、信じない、否定する、という独断的な姿勢です。頼る、ということは、信じる、という独断的な姿勢です。占いや言い伝えを独断的に信じて、恐れて振り回される、というようでは、とても知的とは言えませんね。以前、貴方の先輩の由(ゆう)ちゃん(子路)に言ったことですが、「知らざるを知らずと為(な)せ、是(こ)れ知るなり」(為政第二、十七章)ということです。独断というのは、知らないことを知っていると勘違いして、知ろうとする努力を怠ることです。祖霊や神の存在を私は知らない、と明瞭(はっきり)と理解できたならば、独断に陥らずに敬うことができるし、独断で信じて振り回されて、勝手に怯えるような事態にならないように距離を置く、ということができます。これが知者の態度ですね。

 先生の言われることを理解した樊遲は、続いて質問をしました。

 仁とは何ですか。

 先生は言われました。

 人は、心の修行ができていなくて自分本位な狭い心のまゝだと、何をするにも楽な方に楽な方にと流れていってしまいます。誰も心労(しんど)いことや困難なことはやりたがりません。それで当然なのですが、それでは社会は巧く回ってはいかなくなります。仁は思い遣りの心です。皆の嫌がる作業を積極的に行うことに因って、物事が順調に回り、皆が助かるという循環が生じます。

 自分のことでも同じことが言えますね。困難なことや、やりたくないことは、ついつい後回しにしてしまいます。そうすると、自分のやる可き作業がどんどん滞(とゞこお)っていって二進(にっち)も三進(さっち)もいかなくなり、皆に大変な迷惑をかけることになってしまいます。先に嫌なことを済ませてしまえば、後は安心して気持ちよくできるので、効率良く満足な作業になります。

 どちらにしてもこうした作業は、見返りを期待して行うのではありません。報酬や見返りは自分の為のものです。先にす可きことというのは、自分の為であると同時に、皆の為のものでもあります。それは只自分がやるのが善いと思うからやるだけです。報酬や見返りは後(あと)からついてきます。自分の得は一切思わずに、困難な作業を率先してやっていく。これができたならば、仁と言って善いでしょう。

 

☆ 補足の独言
 これは「知」も「仁」も、一般的な説明ではなく、恐らく樊遲個人に対しての大切な教えであろうと思われます。これらは知や仁の総てを尽くしている言葉ではないでしょう。しかし、こゝで言われている言葉は、誰にとっても大切で有意義なものだと思えます。
 「知」は、全体の和のために、自分の義務を果たす、という思い遣りの行為ができていることが前提である、などということは、孔子にこう指摘されるまで、私などには思いも寄らなかったことです。言われて初めて、そう言われてみれば確かにそうだ、と得心がいき、孔子の思いの深さに改めて畏敬の念を深くしています。
 鬼神の存在は在ることの証明も居ないことの証明も不可能です。しかし多くの人は、理屈抜きの不思議を体験したことがあるでしょう。鬼神の為せる業(わざ)と考えても頷(うなづ)けるようなことであったり、偶然として片付けるには余りにもあり得ない幸運である、としか思えないようなことであったり、と。そのようなときに、自然と湧き起こってくる感情に素直になれは、それは鬼神、人知を超えた大いなる存在に対する感謝や畏敬の念でしょう。闇雲(やみくも)に信じたり疑ったりするのではなく、自分の気持ちに素直になりなさい、ということ、それが「敬」だと思います。
 「遠ざく」というのは、疑ったり拒否したり、或いは逃げたりすることではありません。我慾による関わりを持たないようにする、ということです。占いや迷信や都市伝説の類(たぐい)に不安を搔(か)き立てられて右往左往するようではとても知的とは言えませんね。
 「仁」は思い遣(や)りです。思い遣りとは、他者(ひと)に善(よ)かれと願って、自分の利益を考えないで行動することです。嫌なことを先にするというのも、慾得勘定は二の次にするというのも、思い遣りの心の発露(はつろ)なのです。

 以上を見てみますと、皆実に単純明快で頷(うなづ)けることです。だけど、だから「解りました。ではそうしましょう。」と言ってできるものではありません。誰もが努力目標として掲(かゝ)げ持ちたい内容です。その意味で、この章は普遍性の高い章だな、と思います。
 恐らく樊遲は、先生が魯に戻られてからは、先生の御者(ぎょしゃ)、お抱え運転手をしながら、孔子学園で一生懸命に学んだのではないでしょうか。彼の質問は、学問の入口である「知」と、学問の究極目標である「仁」です。彼が如何に能く孔子の教えを理解していたか、ということが伝わってきます。

 

☆ 余談

 大谷翔平君くらいの大打者になると、敬遠されることが多くなります。この敬遠という言葉の語源はこの章なのだそうです。

 相手を敬うという態(てい)で、実は相手を恐れて嫌がって逃げることを、「敬遠する」と言います。一般に敬遠という言葉は、このように正々堂々と正面から対峙(たいじ)する、ということを避けて、姑息(こそくく)に逃げることの意味に使われることが多いようです。しかし、本来の意味は決して然(そう)ではありません。「敬」とは、心から尊敬し敬うことです。鬼神は、人知を超えた偉大な存在です。故に敬って当然です。しかし同時に、鬼神は未知の存在でもあります。知ることの不可能な存在に近づくことはできません。これに関わるということは、知ったか振(ぶ)りをして大火傷(やけど)をしてしまいます。大谷君は鬼神ではありません。最高の大打者であって、既知の存在なのです。敬するならば、その証(あかし)として、近づかねばなりません。敬する振りをして敬遠するのではなく、心から啓して真っ向(まっこう)勝負をすれば、お客さんも「天晴(あっぱ)れ、天晴れ」と満足するのでしょうね。WBC(世界野球伝統大会)を見ていて、各国の監督や選手達の清々(すがすが)しさに感銘を受けて書いてみました。