6 雍也第六 8

Last-modified: Thu, 24 Nov 2022 16:06:35 JST (526d)
Top > 6 雍也第六 8

☆ 雍也第六 八章

 

 伯牛有疾 子問之 自牖執其手曰 亡之 命矣夫 斯人也 而有斯疾也 斯人也 而有斯疾也

 

 伯牛(はくぎう)、疾(やまひ)有(あ)り。子(し)之(これ)を問(と)ふ。牖(みなみのまど)自(よ)り其(そ)の手を執(と)りて曰(いは)く、亡(ほろ)びなん。命(めい)なるかな。斯(こ)の人(ひと)にして、斯の疾有ること。、斯の人にして、斯の疾有ること。

 

☆ 意訳 (心理屋の勝手解釈)

 冉伯牛(ぜんはくぎゅう)(冉耕(ぜんこう))という冉一族の長老格の方がおられました。彼は孔子を心から信頼し、惜しみなく援助をして、孔子の天命遂行(すいこう)の作業を支えてきた人です。そして、一族の内の嘱望(しょくぼう)される二人の若者、冉有(ぜんゆう)と冉雍(ぜんよう)を孔子に弟子入させました。孔子にとっては大恩のある人です。この伯牛が、不治の病に罹(かゝ)ってしまったのです。先生はその伯牛を見舞いに行きました。対面の礼儀は、君主(目上の者)が北に位置して南面し、臣下(目下の者)が南に位置して北面する、という決まりがあります。伯牛の家(うち)では当然、先生を迎えるために伯牛の寝床を南端(はし)に敷(し)いて先生に南面してもらうように準備していました。ところが先生はそれを拒否して、驚く可き行動に出たのです。先生は部屋の外の南の窓の所に行って自分の方が北面して臣下の礼を採ったのです。これは最大限の伯牛に対する敬意と感謝の表現でした。

 伯牛は身体中顔までもが生きたまゝ腐って爛(たゞ)れているのです。治療の手立ては皆無(かいむ)です。天や神が在るものならば、伯牛のように徳の高い立派な人はこのような業病(ごうびょう)に罹る筈はない、と思うのが常識的な人情です。しかし先生は、それは悪業に因って罹る業病ではない、ということを現実の体験と観察から能く知っていました。しかし感情は「如何(どう)して・・・如何して・・・」と何にとも知れない憤りの念が込み上がってきます。

 伯牛は、自分の無惨な醜い姿や顔を先生に見られるのは、とても嫌だったことでしょう。然し先生は、そんなことは全くお構いなしに覗き込んでいます。気持ち悪いとか嫌といった素振(そぶ)りは微塵(みじん)もありません。それどころか、この爛れた手を取って確りと温かく握り締めながら、嗚咽(おえつ)混じりにこう呟(つぶや)かれたのです。

 こんなことはあってはならない。でも現に斯(こう)なってしまっている、ということは、これが人知では如何(いかん)ともし難い運命というものなのか。私には理解できない、理解などしたくない。貴方のように立派な人がこのような辛い苦しい病に罹るなんて。このような病に・・・貴方のような・・・立派な人が・・・

 と泣き崩れてしまわれました。

 

☆ 補足の独言

 「命(めい)」は「天命」とは全く違うもの、と思います。天命とは、自分が生きることの意味を、天が授けたものでしょう。命は、人知を超えた人力(じんりき)では如何(いかん)ともし難い、受け容れるしかない、為す術(すべ)のない現実を意味する言葉なのではないでしょうか。運命とか宿命と言われるものですね。幾ら考えても決して解るものではなく、嫌だと言って拒否すれば、怨むか嘆くかして自分の人生を棒に振るだけとなります。

 この章は、このような理不尽な運命を、孔子は如何にして受け容れてきたのか、ということを教えてくれる章でもある、と思います。