6 雍也第六 9

Last-modified: Sun, 04 Dec 2022 15:18:09 JST (516d)
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☆ 雍也第六 九章

 

 子曰 賢哉回也 一簞食 一瓢飮 在陋巷 人不堪其憂 回也不改其樂 賢哉回也

 

 子(し)曰(いは)く、賢(けん)なるかな回(くわい)や。一簞(いったん)の食(し)、一瓢(いっぺう)の飲(いん)、陋巷(ろうかう)に在(あ)り。人(ひと)は其(そ)の憂(うれへ)に堪(た)へず。回や其の楽(たのしみ)を改(あらた)めず。賢なるかな回や。

 

☆ 意訳 (心理屋の勝手解釈)

 先生が言われました。

 本当に素晴らしいですねえ、回ちゃんは。彼は粗衣粗食(そいそしょく)で、治安の悪い裏通りの荒屋(あばらや)に住んでいます。普通の人ならそのような貧乏暮らしは、何一つ慾望が満たされない、という思いになって、その憂鬱(ゆううつ)な思いにとても堪え切れるものではありません。ところが回ちゃんは憂(うれ)いに耐えているのではないのです。人生は本来喜びに満ち溢れたものである可きものです。それが、贅沢ができない、慾望が満たされない、ということに因って、この喜びが憂いに変わってしまうのです。回ちゃんにはそれがない。どんなに貧しく不自由で不便な生活環境の中でも、生きることの楽しみや喜びがそのまゝ何等(なんら)変わることなく燃え滾(たぎ)っていますね。これは本当に凄(すご)いことです。素晴らしいですねえ、回ちゃんは。本当に立派です。

 

☆ 補足の独言

 論語を読んでいて能く解らないことがあります。その一つが、顔回の素晴らしさについてです。孔子の人物評は実に具体的で的確で肯定的です。否定的表現や曖昧な表現は、後世の偽作と考えられます。例えば、宰我(さいが)に対しては徹底的に否定的で、それを言う孔子には、君子の片鱗も伺えません。また顔回に関しては、唯々べた褒めで、如何(どう)素晴らしいのかが具体的に伝わってきません。

 この章に於いては、「一簞(いったん)の食(し)、一瓢(いっぴょう)の飲(いん)、陋巷(ろうこう)に在(あ)り。」とありますが、このような貧乏暮らし、あるいは質素な生活をしている人は幾らでもいます。確かに、それを嘆いて日々を過ごしている人は多いでしょう。しかしそういった自分の境遇を嘆くことなく、その生活の中に見出だせる楽しみや喜びに生き活きとした日々を送っている立派な人も沢山います。とても凄いことではありますが、この程度のことで孔子が「賢(けん)なるかな回(かい)や。」「賢なるかな回や。」と感心して褒め讃える訳はないでしょう。これだと、孔子は余っ程(ぽど)贅沢欲の塊(かたまり)で質素倹約などとてもようしない人だった、ということになってしまいます。これも考えられないことです。贅沢欲を脱し得ない弟子が、先生だったらきっとこう言っただろう、と我が身に照らして考え出した作り話であろう、と考えられます。

 ライプニッツは主著『単子(モナッド)論』の中で、個々の存在はそれぞれが一つの単子(たんし)である、という様なことを書いていたと思いますが、それぞれの単子には、下向きの窓が一つだけ開(あ)いているのだそうです。だから人は、自分よりも下の者のことは解っても、自分よりも優れた者のことは理解できない、ということになります。荘子は巻頭の鵬鯤(ほうこん)の巨大で壮大な話の後(あと)、それを嘲笑(あざわら)う蜩(ひぐらし)や学鳩(こばと)の話を載せています。(鷽鳩(がくきゅう)大鵬を笑う。)また『史記』には「燕雀(えんじゃく)安(いづく)んぞ鴻鵠(こうこく)の志を知らんや」という話が載っています。(陳涉(ちんしょう)世家(せいか))

 自分の殻に合わせてしか物を見れないのが、人の宿命なのかも知れませんね。